4. Aṭṭhakavaggo 第4章「8つのこと」
「Aṭṭhaka(アッタカ)」とは「8つ」という意味です。第4章は16テーマのほとんどが、8つのスッタで構成されています。
1. Kāmasuttaṃ 欲望のスッタ集
そのトップバッターは「Kāma カーマ」です。Kāma は、非常に重要なキーワードで、「〜が欲しい、〜したい」という欲求・欲望です。カーマには、大きく2つの種類があります。
1つは生存本能に基づく生理的な欲求です。これは「眠りたい、食べたい、おしっこがしたい」といった意識的にわかる欲求もあれば、「寝返りをうったり、咳をしたり」といった身体中で起こる無意識の欲求もあります。いずれにせよ、五感に対して意識しなくても生じる潜在意識の身体的な欲求です。
もう1つは、五感に紐づけられた欲望です。「見たい、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、触れたい」という欲求です。「眼・耳・鼻・舌・身に触れる、色・声・匂・味・触という5つの物質を得ようとする衝動」で、心は常に対象物に触れていたいのです。
これらの欲求は、自分の好き嫌いの感覚に紐づけられて欲望になります。目に見えたものが「美しい、もっと美しいものを見ていたい」という気持ちです。この二次的に現れた感情がこのスッタ集のテーマである「kāma(欲望)」です。目に見える望ましいもの、好きな音、いい匂い、おいしい味、心地よい触感といった、自分の快楽や楽しみ・好みを叶えたいために望む感覚的な欲求=欲望です。
対象物が逆に嫌いなものでも同じことです。目に見えたものが「嫌だ、もう見たくない」という嫌悪の気持ちも「見たくない」という「kāma(欲望)」です。
身体的な欲求も感覚的な欲望も、心地よい状態を好み、心地よくない状態を嫌悪する点では、同じ「kāma(欲)」です。
例えば、「お腹が減った(不快)→何か食べたい(身体的欲求)→食事をする(快・満足)→これおいしい!(好み発生)→もっと食べたい(感覚的欲望)→絶対食べなきゃ気が済まない(執着)→入手できない(苦しみ発生)」ということです。
SN-4-1-772
Kāmaṃ kāmayamānassa, 快楽を 欲している tassa ce taṃ samijjhati; 彼にとって もし それが 成功するなら Addhā pītimano hoti, 確かに 嬉しい なる laddhā macco yadicchati. 得たり 人間は 欲したものを
もし欲しいものを望む人が
それを実現すれば
欲しいものを得た人間は
確かに喜びに満ちあふれる。
解説
欲しいものがたまたま得られたら、確かに嬉しくて喜びいっぱいかもしれません。しかし、必ず欲しいものが得られるとは限りません。
SN-4-1-773
Tassa ce kāmayānassa, 彼は もし 欲しいにも関わらず chandajātassa jantuno; 好みが・生じた 人にとって Te kāmā parihāyanti, それらの 欲求が 減少するなら sallaviddhova ruppati. 矢で射られたように 悩む
好きだと思うものができれば
それを欲しいと思うようになり
それが得られなければ
矢に射抜かれたように
苦しむことになる。
解説
chanda(チャンダ):「好み」です。人は常に好きか嫌いか(あるいはどちらでもない)常に判断しながら生きています。その判断に論理的な根拠はなく、ただそれまでの経験に基づく「好み」という偏見で決定しています。
SN-4-1-774
Yo kāme parivajjeti, 人は 欲を 避ける sappasseva padā siro; 蛇・のように 足で 頭を Somaṃ visattikaṃ loke, 彼は・この 執着 この世に sato samativattati. 思慮深い者として 越える
蛇の頭を足で踏むのを
避けるように
快につながる欲望を
避ける人は
気づきのある人で
この世で執着に
打ち勝つことができる。
解説
sata:マインドフルな人。思慮深い人。常に気づきをもって生きる人のことです。人の心は決して満足することはありません。なぜならすべての現象は絶え間なく変化しているので、何かを望んだ瞬間に、もうそれ自体が変化しているからです。望んでも望まなくても、どのみち満足は得られないのです。そして生きている限り、欲求は続くのです。そのことに気づき続けているしか、欲を断つ道はないのです。
SN-4-1-775
Khettaṃ vatthuṃ hiraññaṃ vā, 土地 住居 金 あるいは gavassaṃ dāsaporisaṃ; 牛と馬 奴隷・人 Thiyo bandhū puthu kāme, 女 親戚 種々の 欲 yo naro anugijjhati. 人は 人に 貪り求める
土地、家、金
牛、馬、使用人
女、親戚など
あれもこれも欲しがる
強欲な者は
SN-4-1-776
Abalā naṃ balīyanti, 弱さが 人を 強く・制する maddantenaṃ parissayā; 踏みつける・彼を 災難が Tato naṃ dukkhamanveti, その後 彼に 苦が・従う nāvaṃ bhinnamivodakaṃ. 船に 壊れた・水なき
その弱さが人を圧倒し
災難が人を踏みつける
そして壊れた船に水が入るように
苦しみが人に付きまとう。
解説
欲望は苦しみの大きな原因のひとつです。775で挙げられた「あれもこれも欲しがる強欲な者」は、心が弱い人です。「その心の弱さが、自分の心を強く抑圧する」と解釈しました。
SN-4-1-777
Tasmā jantu sadā sato, それゆえに 人は 常に 気づいて kāmāni parivajjaye; 欲を 避ける Te pahāya tare oghaṃ, それらを 捨てて 渡るなら 激流を nāvaṃ sitvāva pāragūti. 船の 水を汲み出す 彼岸に渡る者と
だから人は常に気づいて
快を求める欲を避け
欲を捨てて激流を渡り
船の水を汲み出して
彼岸に至るようにしなさい。
解説
「船(心)に入り込む水(欲)」はあちこちから侵入して防ぎきれないものですが、それにしっかり気づき、全てを汲み出したならば、涅槃に達するという意味です。心は常に対象に触れることを望んでいます。それをすべて汲み出すのは至難の技です。
瞑想者であっても、安らぎを得たい、穏やかになりたいと思って瞑想しているものです。これも「対象に触れたい」という欲望なのです。
Kāmasuttaṃ paṭhamaṃ niṭṭhitaṃ. 欲望のスッタ集 最初の 終わり
1.欲望のスッタ集 終わり