第4章 8つのこと:1. 欲望 772〜777

4. Aṭṭhakavaggo 第4章「8つのこと

Aṭṭhaka(アッタカ)」とは「8つ」という意味です。第4章16テーマのほとんどが、8つのスッタで構成されています。

1. Kāmasuttaṃ 欲望のスッタ集

そのトップバッターは「Kāma カーマ」です。Kāma は、非常に重要なキーワードで、「〜が欲しい、〜したい」という欲求・欲望です。カーマには、大きく2つの種類があります。

1つは生存本能に基づく生理的な欲求です。これは「眠りたい、食べたい、おしっこがしたい」といった意識的にわかる欲求もあれば、「寝返りをうったり、咳をしたり」といった身体中で起こる無意識の欲求もあります。いずれにせよ、五感に対して意識しなくても生じる潜在意識の身体的な欲求です。

もう1つは、五感に紐づけられた欲望です。「見たい、聞きたい、嗅ぎたい、味わいたい、触れたい」という欲求です。「眼・耳・鼻・舌・身に触れる、色・声・匂・味・触という5つの物質を得ようとする衝動」で、心は常に対象物に触れていたいのです。

これらの欲求は、自分の好き嫌いの感覚に紐づけられて欲望になります。目に見えたものが「美しい、もっと美しいものを見ていたい」という気持ちです。この二次的に現れた感情がこのスッタ集のテーマである「kāma欲望)」です。目に見える望ましいもの、好きな音、いい匂い、おいしい味、心地よい触感といった、自分の快楽や楽しみ・好みを叶えたいために望む感覚的な欲求欲望です。

対象物が逆に嫌いなものでも同じことです。目に見えたものが「嫌だ、もう見たくない」という嫌悪の気持ちも「見たくない」という「kāma欲望)」です。

身体的な欲求も感覚的な欲望も、心地よい状態を好み、心地よくない状態を嫌悪する点では、同じ「kāma)」です。

例えば、「お腹が減った(不快)→何か食べたい(身体的欲求)→食事をする(満足)→これおいしい!(好み発生)→もっと食べたい(感覚的欲望)→絶対食べなきゃ気が済まない(執着)→入手できない(苦しみ発生)」ということです。

SN-4-1-772

Kāmaṃ kāmayamānassa, 
快楽を 欲している
tassa ce taṃ samijjhati;
彼にとって もし それが 成功するなら
Addhā pītimano hoti, 
確かに 嬉しい なる
laddhā macco yadicchati.
得たり 人間は 欲したものを 

もし欲しいものを望む人が
それを実現すれば
欲しいものを得た人間は
確かに喜びに満ちあふれる。

解説

欲しいものがたまたま得られたら、確かに嬉しくて喜びいっぱいかもしれません。しかし、必ず欲しいものが得られるとは限りません。

SN-4-1-773

Tassa ce kāmayānassa,
彼は もし 欲しいにも関わらず 
chandajātassa jantuno;
好みが・生じた 人にとって
Te kāmā parihāyanti, 
それらの 欲求が 減少するなら
sallaviddhova ruppati.
矢で射られたように 悩む

好きだと思うものができれば
それを欲しいと思うようになり
それが得られなければ
矢に射抜かれたように
苦しむことになる。

解説

chanda(チャンダ):「好み」です。人は常に好きか嫌いか(あるいはどちらでもない)常に判断しながら生きています。その判断に論理的な根拠はなく、ただそれまでの経験に基づく「好み」という偏見で決定しています。

SN-4-1-774

Yo kāme parivajjeti, 
人は 欲を 避ける
sappasseva padā siro;
蛇・のように 足で 頭を
Somaṃ visattikaṃ loke, 
彼は・この 執着 この世に
sato samativattati.
思慮深い者として 越える

蛇の頭を足で踏むのを
避けるように
快につながる欲望を
避ける人は
気づきのある人で
この世で執着に
打ち勝つことができる。

解説

sata:マインドフルな人。思慮深い人。常に気づきをもって生きる人のことです。人の心は決して満足することはありません。なぜならすべての現象は絶え間なく変化しているので、何かを望んだ瞬間に、もうそれ自体が変化しているからです。望んでも望まなくても、どのみち満足は得られないのです。そして生きている限り、欲求は続くのです。そのことに気づき続けているしか、欲を断つ道はないのです。

SN-4-1-775

Khettaṃ vatthuṃ hiraññaṃ vā, 
土地 住居 金 あるいは
gavassaṃ dāsaporisaṃ; 
牛と馬 奴隷・人
Thiyo bandhū puthu kāme, 
女 親戚 種々の 欲
yo naro anugijjhati.
人は 人に 貪り求める 

土地、家、金
牛、馬、使用人
女、親戚など
あれもこれも欲しがる
強欲な者は

SN-4-1-776

Abalā naṃ balīyanti, 
弱さが 人を 強く・制する
maddantenaṃ parissayā;
踏みつける・彼を 災難が 
Tato naṃ dukkhamanveti, 
その後 彼に 苦が・従う
nāvaṃ bhinnamivodakaṃ.
船に 壊れた・水なき

その弱さが人を圧倒し
災難が人を踏みつける
そして壊れた船に水が入るように
苦しみが人に付きまとう。

解説

欲望は苦しみの大きな原因のひとつです。775で挙げられた「あれもこれも欲しがる強欲な者」は、心が弱い人です。「その心の弱さが、自分の心を強く抑圧する」と解釈しました。

SN-4-1-777

Tasmā jantu sadā sato, 
それゆえに 人は 常に 気づいて
kāmāni parivajjaye;
欲を 避ける
Te pahāya tare oghaṃ, 
それらを 捨てて 渡るなら 激流を
nāvaṃ sitvāva pāragūti.
船の 水を汲み出す 彼岸に渡る者と

だから人は常に気づいて
快を求める欲を避け
欲を捨てて激流を渡り
船の水を汲み出して
彼岸に至るようにしなさい。

解説

船(心)に入り込む水(欲)」はあちこちから侵入して防ぎきれないものですが、それにしっかり気づき、全てを汲み出したならば、涅槃に達するという意味です。心は常に対象に触れることを望んでいます。それをすべて汲み出すのは至難の技です。

瞑想者であっても、安らぎを得たい、穏やかになりたいと思って瞑想しているものです。これも「対象に触れたい」という欲望なのです。

Kāmasuttaṃ paṭhamaṃ niṭṭhitaṃ.
欲望のスッタ集 最初の 終わり

1.欲望のスッタ集 終わり