第4章 8つのこと:2. 8つの洞窟 778〜785

2. Guhaṭṭhakasuttaṃ 8つの洞窟のスッタ集

第4章「8つのこと」の2番目のスッタ集は「guhā洞窟+ aṭṭhaka8つの」がテーマです。「洞窟についての8つのこと」とは、いったい何でしょう?

洞窟とは「心の中の闇」のことです。心にある穢れや未熟な精神的資質のことです。このスッタ集は、心の中の8つの闇を教えています。

SN-4-2-778

Satto guhāyaṃ bahunābhichanno, 
執着の 洞窟(心)に 多くの・望みで覆われた 
tiṭṭhaṃ naro mohanasmiṃ pagāḷho;
渇き 人は 妄想の中に 沈む
Dūre vivekā hi tathāvidho so, 
遠くに 離れた 実に その種の 彼は
kāmā hi loke na hi suppahāyā.
欲望は なぜなら この世で ない 実に よく・捨てて

心に執着して多くの欲にまみれ
妄想に浸って渇望する人は
隠遁からはほど遠い。
この世の欲は簡単には
捨てられないのだから。

解説

1つ目の闇は、bahunā+abhichanna:執着することで生じる欲にまみれた心です。ここでのkāmaには、「官能的な欲望と官能的な快楽」という2つの意味があります。

SN-4-2-779

Icchānidānā bhavasātabaddhā, 
欲に基づき 存在の・喜びに・縛られる
te duppamuñcā na hi aññamokkhā;
彼らは 解脱しがたい ない なぜなら 他の・解脱
Pacchā pure vāpi apekkhamānā, 
後に 前に 或は 期待して
imeva kāme purimeva jappaṃ.
これらの 欲望を 前の・或は 貪る

欲の向くままに
世の中の楽しみにとらわれている者は
解脱するのが難しい。
未来に期待したり
過去の喜びに浸ったところで
他人が解脱させてくれるわけではない。

解説

2つ目の心の闇は、未来に夢見て、過去の楽しかったことに執着することです。「Icchānidānā bhavasātabaddhā」。「人という存在のあらゆる快楽に結びついた欲」、つまり、生存本能に基づく欲求から官能的な快楽まで、存在する限りつきまとうあらゆる欲求・欲望ということです。「Pacchā pure」は、後(未来)に前(過去)にという意味です。
 
ここでいう「解脱」とは、「自分自身の心からの解放」ということです。自分自身で自分を縛っているあらゆる束縛に気づき、そこから解放させることができるのは、ブッダ でも誰でもなく自分自身だということです。しかしながら、人は縛られていることにすら気づかず、過去を思い出してはニヤニヤして、未来を夢見て現を抜かし、今をスルーしているわけです。2つ目の闇は、現在を生きていないということでもあります。

SN-4-2-780

Kāmesu giddhā pasutā pamūḷhā, 
欲望を 欲張り 熱中し 混迷
avadāniyā te visame niviṭṭhā;
ケチで 彼らは 不正に 専念
Dukkhūpanītā paridevayanti, 
苦しみ・もたらされる 嘆く
kiṃsū bhavissāma ito cutāse.
どうして なるがまま ここより 死んで

欲張りで楽しみに夢中で
わけがわからなくなっている人たちは
ケチで悪いことばかりする。
そして、死んだらいったいどうなるのか、と
苦しみがもたらされて嘆き悲しむ。

解説

3つ目の闇は、物惜しみする心です。avadāniya は、極度に物惜しみすることです。金品に強い執着があり、自分の方へ財産が流れてくるのは歓迎しますが、自分から外へ出ていくことは嫌、他者と共有するのが嫌なのです。物惜しみは精神的な病で、苦しみをもたらす不健全な心です。
 
共有するのが嫌ということは、他者を排除することで、そこに分離が発生します。分離を感じると私たちは、他者を無視したりぞんざいに扱ったりして、自分の利益だけを追求しようとし、不正も平気になるのです。分離を生み出す心の動きを理解し、他者に与え、他者と共有することは、苦しみから抜け出す第一歩です。

SN-4-2-781

Tasmā hi sikkhetha idheva jantu, 
だから 実に 学ぶべき この世で 人は
yaṃ kiñci jaññā visamanti loke;
それは 何でも 知るべき 不正であると 世界で
Na tassa hetū visamaṃ careyya, 
ない 彼には 理由は 不正を 行く
appañhidaṃ jīvitamāhu dhīrā.
少ない・これ 命・言う 賢者は

だから人は今すぐ学ばなければならない。
この世の不正は何であれ知るべきで
悪いことをする暇はないのです
賢者が言うように人生は短いのだから

解説

4つ目の闇は、この世でのあらゆる「不正」です。正しくないこと、正義・正当・正直ではないことです。不正を働くとは、自分の思い通りになることを優先して、他の生命に害や損失を与えたり、迷惑となる行いをすることです。つまり自分の欲を最優先し、そのためには他の生命がどうなってもいいということです。

SN-4-2-782

Passāmi loke pariphandamānaṃ,
観察する 世界で 震えている
pajaṃ imaṃ taṇhagataṃ bhavesu;
人々を この 渇望にかられた 存在に対し
Hīnā narā maccumukhe lapanti, 
劣った 人々は 死の口に 泣きわめく
avītataṇhāse bhavābhavesu.
ない・離る・渇望から 存在・非生存に対する

私にはよく見える。
この世で生きることに
執着して怯える人々が。
渇望を捨てずに輪廻から解放されない
哀れな人々は死の直前に泣きわめく。

解説

5つ目の闇は、自分の生命、生きることへの執着です。人々が怯えているのは、死を怖れているからです。何が起きるかわからないこの不確かな世界において、唯一、確かなことは「必ず死ぬ」ということです。にも関わらず「何としてでも生きたい。死にたくない」と人は切望するのです。

SN-4-2-783

Mamāyite passatha phandamāne, 
我がものとする 見なさい 震えている人々を
maccheva appodake khīṇasote;
魚のように 少水の 枯渇した・流水
Etampi disvā amamo careyya, 
これをも 理解して 無欲 行く・よい
bhavesu āsattimakubbamāno.
存在に対し 執着・つくられていない

「私のもの」に執着して
怯える人々を見なさい。
まるで水の少ない枯れかけた小川の魚のようだ。
これを理解して無欲に生きるのがいい
「私」に執着しないように。

解説

6つ目の闇は、「私のもの」に対する執着です。私のもの=自分に関連づけたあらゆる存在であり、私の身体や私の言葉、私の考えも「私のもの」です。

SN-4-2-784

Ubhosu antesu vineyya chandaṃ, 
両方の 極端への 制して 欲求を
phassaṃ pariññāya anānugiddho; 
接触を よく知り 貪りを求めず
Yadattagarahī tadakubbamāno, 
自ら非難した それらを・否・実行する
na lippatī diṭṭhasutesu dhīro.
ない 汚され 見聞きしたことに 賢者は

極端な好き嫌いによる欲求を抑え
欲張らずに接触による感覚を十分に理解し
自ら非難したことは行わない賢者は
見聞きしたものに執着しない

解説

7つ目の闇は「両極端な好き・嫌い」です。「Ubhos anta」両方の極端とは、6つの感覚器官への接触によって起こる感覚から生じる、極端な「快・不快」のことだと解釈しました。
 
好きも嫌いも極端にならなければ、大きな問題にはなりませんが、激しく好きだったり、激しく嫌悪するから大変なことになるのです。激しく好きだったり、激しく嫌いだったりするのは、「大切な私の」好きなもの、嫌いなものだからです。実はその好きなもの、嫌いなもの自体は、どうでもよくて、根底には「」への強い執着だけがあるのです。
 
接触による感覚を理解するとは、6種類の感覚的接触を識別できること、感覚的接触の性質(無常・無我)を熟考すること、感覚的接触への渇望(執着)を放棄することの3つです。

SN-4-2-785

Saññaṃ pariññā vitareyya oghaṃ, 
知覚を 完全な理解 渡るように 激流を
pariggahesu muni nopalitto;
把握に 聖者は ない・染まる
Abbūḷhasallo caramappamatto, 
抜き出す・矢を 行く・怠りなく
nāsīsatī lokamimaṃ parañcāti.
願わない 世界を・この あの・また・と

知覚を完全に理解して
激流を渡るように。
聖者は判断せず
矢を抜き出して
怠りなく行動する
この世もあの世も望まない。

解説

8つ目の闇は、「Sañña(サンニャー)による誤った判断」です。Saññaとは「心に思い描く想念・概念・表象」で「知覚(知る経験)+思考」で、重要なキーワードです。
 
ブッダ によると、人間身体+心)を構成しているのは、rūpa(物質=肉体)・vedanā(感覚)・saññā(思考)・saṅkhārā(反応)・viññāṇa(意識)の5つの集合体khandha(カンダ)」です。

viññāṇa(意識)が情報をとらえると同時に、rūpa(肉体)の6つの感覚器官に対象物が phassa(接触)し、vedanā(感覚)「快・不快・どちらでもない」が生じます。ただちにsaññā(知覚・思考)がそれを過去の記憶と照合して考え、次の行動=saṅkhārā(反応)が決まります。

例えば、部屋に入りテーブルの上にあるお菓子に気づく(viññāṇa 意識)→ 目(rūpa 肉体の感覚器官)がそれを見て(phassa 接触)→「」のvedanā(感覚)が生じる → 「こないだ食べて美味しかったお菓子だ」(saññā 知覚・思考)→ 「食べよう」(saṅkhārā 反応)、となるわけです。

この反応を決めるために判断する心の作用がサンニャーです。人は生きれば生きるほど、自分の色眼鏡で物事を判断します。思考は一般的には「考えや思いを巡らせる精神の活動」ですが、実際には「過去の記憶に基づく言葉と映像」に過ぎません。この心像には、五感で受け取った像(知覚心像知覚)と、それらを脳内で再構成した像(記憶心像思考)があり、サンニャーはこの2種類の心像を複数照会し合いながら同定し、判断に至る作業を行っています。

人はこの心像に振り回されて、苦しんでいるのです。

Guhaṭṭhakasuttaṃ dutiyaṃ niṭṭhitaṃ.
洞窟・8つの・スッタ集 2番目 終わり

2. 8つの洞窟のスッタ集 終わり