第1章 蛇:4. 農夫バーラドヴァージャ 81〜82

4. Kasibhāradvājasuttaṃ 農夫バーラドヴァージャ ②

散文

Atha kho kasibhāradvājo brāhmaṇo mahatiyā kaṃsapātiyā pāyasaṃ vaḍḍhetvā bhagavato upanāmesi – ‘‘bhuñjatu bhavaṃ gotamo pāyasaṃ. Kassako bhavaṃ; yaṃ hi bhavaṃ gotamo amatapphalaṃ kasiṃ kasatī’’ti.

するとバラモンの農夫バーラドヴァージャは、大きな青銅の器にキール(甘いミルク粥)を盛り、それをブッダに捧げました。「ゴータマ様がこのキールを食べられますように。あなたは耕す人です。ゴータマ様は、果実として無死をもたらす耕作をなさるのですから」

SN1-4-81

"Gāthābhigītaṃ me abhojaneyyaṃ, 
説法で得たものを 私にとって ない・受けるべき
sampassataṃ brāhmaṇa nesa dhammo; 
正しく見る人には バラモンよ ない・これは ダンマは
Gāthābhigītaṃ panudanti buddhā,
説法で得たものを 拒否する 覚者は
dhamme satī brāhmaṇa vuttiresā.
ダンマに 存在する バラモンよ 行為

教えを説いて得たものを
私は受け取ることはできない。
バラモンよ
正しく見る者にとって
これはダンマに反する。
教えを説いて得たものを
覚者は拒否します。
バラモンよ
これがダンマに則った行いです。

解説

農夫はブッダの教えに感動し、素晴らしいことを教えてくれたことに対する感謝の気持ちとして、ブッダにキールを捧げました。しかしこれも世俗の価値観でしかなかったのです。ブッダは、「覚者は説法に対する報酬を受け取らない」と、キールを拒否したのです。

覚者は、食べるため、生きていくために説法をすることはありません。覚者の行為はすべてが善行であり、善行は対価や見返りを期待してはいけません。対価や見返りを期待するということは、そこに欲があるからです。

そんなつもりはなくても見返りを受け取った途端に、善行が欲から出た行為に変わるので、その功徳は消えてしまいます。ダンマの教えを説くことは最高の功徳なのです。それによって対価を得て、みすみす価値を下げてはいけないのです。

何かと引き換えではなく、常に一方的に与えることが功徳です。だからダンマを説く方も、食事を施す人も一方通行で与えなくてはなりません。お礼を言ってもいけないのです。ダンマは自然の法則です。太陽や雨が見返りを期待しないのと同じことなのです。見返りを期待することは自然法則に反しているのです。

SN1-4-82

”Aññena ca kevalinaṃ mahesiṃ, 
他によって と 完全な人 大仙人に
khīṇāsavaṃ kukkuccavūpasantaṃ; 
煩悩を滅尽した人 後悔・静まった人に
Annena pānena upaṭṭhahassu, 
食物よって 飲物によって 仕えなさい
khettaṃ hi taṃ puññapekkhassa hotī"ti.
耕作地 実に それは 福徳を・期待する人のために なる と

私ではなく他の
アラハンや偉大な仙人
煩悩を滅尽した人や
後悔する悪行をやめた人に
食べ物や飲み物を施しなさい。
福徳を期待する人にとって
それはまさに種を撒く土地になる。

解説

教えてもらったから、そのお礼をする、そのことに感謝する、あなたを尊敬する、といった引き換えの行為では、その有難い行為が単なる対価となってしまい、喜びや至福を得ることはできないのです。何も期待せず、ただ与えるという純粋な行為施し(布施、奉仕)が、自然の法則に沿ったやり方だということです。


散文

‘‘Atha kassa cāhaṃ, bho gotama, imaṃ pāyasaṃ dammī’’ti? 
‘‘Na khvāhaṃ taṃ, brāhmaṇa, passāmi sadevake loke samārake sabrahmake sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya, yassa so pāyaso bhutto sammā pariṇāmaṃ gaccheyya, aññatra tathāgatassa vā tathāgatasāvakassa vā. Tena hi tvaṃ, brāhmaṇa, taṃ pāyasaṃ appaharite vā chaḍḍehi appāṇake vā udake opilāpehī’’ti.

「それでは、ゴータマ様、このキールはどなたに差し上げたらよいのでしょうか?」
「バラモンよ、この宇宙にはデーヴァの神々や邪悪なマーラ、高次の存在であるブラフマーがいて、この世には僧侶やバラモン、王族や一般人がいるが、覚者やその弟子は別として、このキールを食べて正しく消化できるような人はいないでしょう。バラモンよ、その場合、キールを植物のない場所に捨てるか、生き物のいない水の中に捨てなさい」。

Atha kho kasibhāradvājo brāhmaṇo taṃ pāyasaṃ appāṇake udake opilāpesi. Atha kho so pāyaso udake pakkhitto cicciṭāyati ciṭiciṭāyati sandhūpāyati sampadhūpāyati. Seyyathāpi nāma phālo divasaṃ santatto udake pakkhitto cicciṭāyati ciṭiciṭāyati sandhūpāyati sampadhūpāyati; evameva so pāyaso udake pakkhitto cicciṭāyati ciṭiciṭāyati sandhūpāyati sampadhūpāyati.

そこでバラモンの農夫バーラドヴァージャは、生き物のいない水中にミルク粥を投げ入れました。すると水に投げ捨てられたミルク粥は、まるで熱した鉄球が水の中でシューシューと音を立てるように、シューシューと音を立てて湯気を煙のように立てました。

Atha kho kasibhāradvājo brāhmaṇo saṃviggo lomahaṭṭhajāto yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavato pādesu sirasā nipatitvā bhagavantaṃ etadavoca – ‘‘abhikkantaṃ, bho gotama, abhikkantaṃ, bho gotama! Seyyathāpi, bho gotama, nikkujjitaṃ vā ukkujjeyya, paṭicchannaṃ vā vivareyya, mūḷhassa vā maggaṃ ācikkheyya, andhakāre vā telapajjotaṃ dhāreyya, cakkhumanto rūpāni dakkhantīti; evamevaṃ bhotā gotamena anekapariyāyena dhammo pakāsito. Esāhaṃ bhavantaṃ gotamaṃ saraṇaṃ gacchāmi dhammañca bhikkhusaṅghañca, labheyyāhaṃ bhoto gotamassa santike pabbajjaṃ, labheyyaṃ upasampada’’nti.

すると農夫バーラドヴァージャは、髪を逆立てて畏れ慄きながらブッダのもとに行き、ブッダの足元に頭を下げて、こう言ったのです。「素晴らしい、ゴータマ様! 素晴らしいです! ゴータマ様! ひっくり返っているものをまっすぐに置き、隠されているものを明らかにし、道に迷っている人に道を示し、目のある人が形を見ることができるように暗闇に灯りを運ぶように、それと同じように、御霊は多くの理法を通してダンマを明らかにされたのです。私はゴータマ先生のもとへ行き、ダンマに行き、僧侶の集まりであるサンガに行きます。ゴータマ先生が私を、今日から一生、帰依した信徒として覚えていてくれますように。御前で出家させてください、私をサンガに受け入れてください」

Alattha kho kasibhāradvājo brāhmaṇo bhagavato santike pabbajjaṃ, alattha upasampadaṃ. Acirūpasampanno kho panāyasmā bhāradvājo eko vūpakaṭṭho appamatto ātāpī pahitatto viharanto nacirasseva – yassatthāya kulaputtā sammadeva agārasmā anagāriyaṃ pabbajanti, tadanuttaraṃ –brahmacariyapariyosānaṃ diṭṭheva dhamme sayaṃ abhiññā sacchikatvā upasampajja vihāsi. ‘‘Khīṇā jāti, vusitaṃ brahmacariyaṃ, kataṃ karaṇīyaṃ, nāparaṃ itthattāyā’’ti abbhaññāsi. Aññataro ca panāyasmā bhāradvājo arahataṃ ahosīti.

バラモンの農夫バーラドヴァージャは、ブッダの前で出家し、受諾を得ました。それからまもなく、一人でひっそりと暮らし、注意深く、熱心に、精進した彼は、一族が正しく家を出て家なきところに行くための聖なる人生の最高の目標に、長い時間をかけずに到達し、そこにとどまり、今ここでそれを自ら理解し悟ったのです。彼は知っていました。「誕生は終わり、聖なる生活は満たされ、任務は完了した。この世のためにこれ以上することはない」と。こうしてバーラドヴァージャは、アラハンの1人となったのです。

解説
cicciṭāyati:シュッシュッと音を出して蒸発する。sandhūpāyati:煙を出す。sampadhūpāyati:蒸気を出す。キールは、ブッダに対してお礼(報酬)として捧げられたものです。農夫は感謝のつもりでしたが、ブッダの教えを=ミルク粥に値すると評価してしまったのです。ブッダが受け取りを拒否したように、ブッダの教えへの同等の対価、交換物としてキールは穢れてしまいました。なぜ、あらゆる界の存在が消化できないのか、キールが湯気を立てたかは、今のところわかりません。

農夫バーラドヴァージャは、水中に捨てられたキールがシューシュー湯気を立てるのをみて、その強いエネルギーに圧倒されたのか、自分の犯した過ちの大きさに気づき恐れ慄きます。そしてブッダに新しい食べ物を施すのではなく、自身を差し出したのですが、これはブッダにとって何より喜ばしいことだったでしょう。

Kasibhāradvājasuttaṃ catutthaṃ niṭṭhitaṃ.

4. 農夫バーラドヴァージャ 終わり