6. Jarāsuttaṃ 老いのスッタ集
第4章「8つのこと」の6番目のスッタ集は「Jarā:老い衰えること」がテーマです。ここでは8つではなく、10のスッタで語られています。
SN-4-6-810
Appaṃ vata jīvitaṃ idaṃ, わずか 実に 生命は この oraṃ vassasatāpi miyyati; 以内に 年・百・さえ 死す Yo cepi aticca jīvati, 人が もしも 越えて 生きても atha kho so jarasāpi miyyati. 時に まさに 彼は 老いて・また 死す
人生は実に短い
百年以内に人は死ぬ
もしそれ以上生きても
老衰で必ず死ぬのです。
解説
現在、平均寿命が最も長い国はご存知のように、日本で84.3歳です(WHO 2021)。世界全体の平均寿命は73.3歳で、インドは70.79歳ですが、これはインドでは新生児の死亡率が2.54%と高いため(日本の新生児死亡率は世界2位の低さで0.09%)、このような結果になります。このスッタでは100歳超えを視野に入れているくらいなので、私たちとそれほど違う人生ではなさそうです。ブッダ自身は80歳で亡くなったといわれています。
SN-4-6-811
Socanti janā mamāyite, 悲しむ 人々は 私の物・収益 na hi santi niccā pariggahā; ない 実に ある 常に 所有物は Vinābhāvasantamevidaṃ, 分離・存在・ iti disvā nāgāramāvase. このように 理解して 市民に・ない・影響される
人は「私のもの」によって
嘆き悲しむのです。
所有するものがずっと
変わらないことはないからです。
このように理解して
世俗に影響されないように。
解説
「私のもの」と見なすものがあるから、人はそれに執着して悲しんだり嘆いたりするのです。所有するどんなものも必ず壊れ、必ず死に、ずっとそこに変わらず存在することはないからです。
SN-4-6-812
Maraṇenapi taṃ pahīyati, 死によってまた それは 消失する yaṃ puriso mamidanti maññati; その 人は 私のもの・これは 思う Etampi viditvā paṇḍito, このように 知り 賢者は na mamattāya nametha māmako. ない 利己主義に ない・曲げる 自分のため
「これは私のもの」と思っていても
人が死ねば消えてしまうのです。
このことを理解した上で賢者は
「自分のため」という
利己主義に屈しないように。
解説
死ねば「私のものという想念」も「私という肉体」と共に、消え失せてしまいます。また、残された者にとっても、「死者のもの」はそれぞれの有利な条件のもとに所有者が変わるか、捨てられてしまいます。
「mamatta 利己主義」は、自分の利益や自分の立場だけを重視し、他者や社会一般のことは考慮に入れず、わがまま勝手にふるまう態度で、それにより、他者の善行を軽視、無視する考え方です。エゴイズムのことです。
SN-4-6-813
Supinena yathāpi saṅgataṃ, 夢により そのように 会った paṭibuddho puriso na passati; 目覚めると 人は ない 見ること Evampi piyāyitaṃ janaṃ, 同様に 大切な 人々も petaṃ kālakataṃ na passati. 亡者を 不遇・為す ない 見ること
目が覚めると
夢で出会ったものが
見えないのと同じように、
大切な人々も死んでしまえば
見ることはできない。
解説
これは逆に返せば、人が現実だと思っている物事も、すべては心が思い描く想念でしかなく、つまり夢と同じなのです。そのことをよく理解できれば、何事にも動じなくなり、アラハンとなります。
SN-4-6-814
Diṭṭhāpi sutāpi te janā, 見られた 聞かれた それらの 人々は yesaṃ nāmamidaṃ pavuccati; 彼らの 名前が・この 言われる Nāmaṃyevāvasissati, 名前が・だけ・残る akkheyyaṃ petassa jantuno. 告げる 亡者として 人々が
見られるときも
聞かれるときも
人々は名前で呼ばれる。
死んでしまえば
その名前が残るだけ。
解説
名前は記号のようなものです。分別するためのものです。
SN-4-6-815
Sokapparidevamaccharaṃ, 憂い・悲しみ・物惜しみを na jahanti giddhā mamāyite; ない 捨てる 欲深い 私のものとする Tasmā munayo pariggahaṃ, それ故 聖者たちは 所有物を hitvā acariṃsu khemadassino. 捨てて 行った 安穏を・見る人は
利己的で欲深い人は
憂い、悲しみ、物惜しみして
「私のもの」を捨てない。
それ故、欲を捨て去った聖者は
やすらぎ(涅槃)を見るのです。
解説
soka:憂い、憂鬱な感じです。ここでは、「私のもの」がなくなるかもしれない、と未来に不安を抱いて思い悩む憂鬱感で、「自分の思い通りにならなかったらどうしよう」という心の動揺です。
parideva:悲しむことです。ここでは「私のもの」がなくなったときに、過去を悲しむ気持ちで、「自分の思い通りにならなかった」ときに発生します。
macchara:物惜しみです。これは「私のもの」が他者に使われるのが嫌、共有したくないという欲深さで、「自分の思い通りにならないのは許せない」というケチな思いです。これら3つはいずれも執着から発生しています。khema:平安・安穏の=涅槃のことです。
SN-4-6-816
Patilīnacarassa bhikkhuno, 避けて行く 出家修行者たちは bhajamānassa vivittamāsanaṃ; つきあい・存在 離れた・坐る所に Sāmaggiyamāhu tassa taṃ, 和合が・起きる 彼に それは yo attānaṃ bhavane na dassaye. その人は 自分を 存在領域に ない 見ることが
人づきあいを避けて
人里離れた場所で坐る
出家修行者たちは
彼らに宇宙との融合が起こると
どんな存在領域にも
その人の姿を見ることはない。
解説
Sāmaggiyamāhu:「和合・調和・一心同体+起こる」。涅槃に達した人は「生まれ変わらずに死ぬと消滅する」とブッダが言っていますので、消滅=宇宙との融合と解釈しました。ここはかなりの意訳になり、現時点でのあくまでイメージです。このスッタでは、「涅槃に達すると消滅して生まれ変わらない」ということを示しているのだと思います。
存在領域とは死後に生まれ変わる「31の存在界」のことです。涅槃に達した人は輪廻転生から外れるので、もうどの存在領域にも姿を見ることはない、という意味です。
SN-4-6-817
Sabbattha munī anissito, すべてにおいて 聖者は ない・依存 na piyaṃ kubbati nopi appiyaṃ; ない 好き 行う ない・また 否・好き Tasmiṃ paridevamaccharaṃ, 彼に対して 悲しみ・物惜しみは paṇṇe vāri yathā na limpati. 葉 水 ように ない 汚す
あらゆるものにおいて
聖者は依存せず
好きも嫌いもない。
葉が水を弾くように
彼には悲しみや物惜しみがつかない。
解説
muni:815にもmuniが出てきますが、静かで智慧のある人のことです。覚醒した人のことだと思うので「アラハン」と訳してもいいのですが、アラハン=arahantなので、違えて聖者としました。812は paṇḍita(賢者)、816は bhikkhu(出家修行者)です。
SN-4-6-818
Udabindu yathāpi pokkhare, 水滴 のように・もし 蓮において padume vāri yathā na limpati; 蓮花において 水が のように ない 汚れ Evaṃ muni nopalimpati, このように 聖者は ない・汚れ yadidaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā. すなわち 見た・聞いた 思った あるいは
例えば蓮の葉が水滴を弾くように
蓮の花が泥水に汚れないように
このように聖者はすなわち
見たり聞いたり感じたりすることに
執着することはない。
解説
「例えば蓮の葉が水滴を弾くように」は、前の817のスッタの「葉が水を弾く」に続けて補足したものかと思います。「蓮の花が泥水に汚れない」は、ハスの花が水面から立ち上がり泥水には触れないことがイメージできます。
SN-4-6-819
Dhono na hi tena maññati, 清らかになった人 ない 実に これで 考える yadidaṃ diṭṭhasutaṃ mutesu vā; すなわち 見た・聞いた 思った あるいは Nāññena visuddhimicchati, ない・他からは 清浄を・求め na hi so rajjati no virajjatīti. ない 実に 彼は 楽しむ ない 夢中になる
清らかになった人は
見たり聞いたり
感じたからといって
それにとらわれない。
他からのもので
清らかになれるとは思っていない
何かに夢中になることも
楽しむことはない
解説
このスッタ集でも「5.至高のスッタ集」と同様に「見る・聞く・考える(思考)」が出てきますが、ここでは「見る・聞く・感じる」と訳しました。至高のスッタ集は、バラモン階級の教義や戒律、儀式、思想への批判でしたが、ここではもっと個人的な、老いて死ぬまでに人が「見て、聞いて、感じる思い」だと解釈しました。
人生は短く、所有するということは、憂い・悲しみ・物惜しみをもたらすのです。「私のもの 」という概念を捨てて、「見たこと、聞いたこと、感じたこと」にとらわれないことで、自由は得られるのではないでしょうか。
Jarāsuttaṃ chaṭṭhaṃ niṭṭhitaṃ. 老い・スッタ集 6番目 終わり
6. 老いのスッタ集 終わり