11. Kalahavivādasuttaṃ 争いと口論 ②
SN-4-11-875
‘‘Sātaṃ asātañca kutonidānā, 快は 不快は・と どこから・原因 kismiṃ asante na bhavanti hete; それが 不存に ない 存在 実に・これらは Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ, 消滅 生成・とまた この概念が etaṃ me pabrūhi yatonidānaṃ’’. これを 私に 説いて下さい 何から・原因
快・不快は
何から生じるのですか?
その何かがなければ
快・不快も生じないのですか?
また、消滅と生成という
概念が何から生じるのかも
教えてください。
解説
「消滅と生成という概念」とは、「無いと有る」という概念のことです。「快・不快には原因が有る」なら、その原因が無ければ、快と不快もまた生じないのか? という問いです。ちょっとこんがらかりそうですが、質問者は人の苦しみの原因について、ある程度の知識を持った人のようです。ブッダ自身の化身であれば、それも納得です。
SN-4-11-876
‘‘Phassanidānaṃ sātaṃ asātaṃ, 接触が・原因で 快は 不快は phasse asante na bhavanti hete; 接触が ないとき ない 存在 実に・これらは Vibhavaṃ bhavañcāpi yametamatthaṃ, 消滅 生成・とまた この概念が etaṃ te pabrūmi itonidānaṃ’’. これを あなたに 説きます これを・原因
接触から快・不快が生じる。
接触がなければ
何も生じない。
また、消滅と生成という
概念も接触から生じることを
私はあなたに教える。
解説
好きな音楽を聞いて心地快く思ったり、ヌメヌメした物体に触れて気持ち悪いと思ったり、人でも物でも何か物体を見たり、聞いたり、触った時に、人は快・不快を感じます。つまり6つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・体・心)を通して、何かが接触した時に(見る・聞く・嗅ぐ・触れる・感じる)、快・不快が発生します。ただ物体があるだけでは快・不快は発生しません。その人の6つの感覚器官に接触があってはじめて、快・不快が発生します。
SN-4-11-877
‘‘Phasso nu lokasmi kutonidāno, 接触は 一体 世において どこから・原因 pariggahā cāpi kutopahūtā; 占有は あるいはまた どこから起こるのか Kismiṃ asante na mamattamatthi, 何が なければ ない 我執が・存在 kismiṃ vibhūte na phusanti phassā’’. 何が 消滅すれば ない 触れる 接触が
この世において接触とは一体
何から生じるのですか?
また、「私のもの」という気持ちは
何から生じるのですか?
その何かがなければ
「自我」は存在しないのですか?
何が消滅すれば感覚器官に
接触がなくなるのですか?
解説
mama-attan-atthi:私の・自我・存在
SN-4-11-878
‘‘Nāmañca rūpañca paṭicca phasso, 名称と 形態と 原因として 接触は icchānidānāni pariggahāni; 欲が原因で 所有欲が Icchāyasantyā na mamattamatthi, 欲がなければ ない 我執が存在 rūpe vibhūte na phusanti phassā’’. 形態が 消滅すると ない 触れる 接触が
名称と形態があるから
接触が生じる。
「私のもの」は欲から生じる。
欲がなければ「自我」はない。
形態が消滅すれば
感覚器官に接触しない。
解説
生まれたばかりの赤ちゃんにとって「これは私のもの」という明確な意識はないでしょう。なにも知らない赤ちゃんが生まれ、人として生きていく中で、周りに対して「好き」と「嫌い」という感情が自然に生まれ、徐々に周りを認識し始めます。
笑ったりはしゃいだりするのは、「好き」という感情です。泣くのは「嫌い」という感情です。常に「好きと嫌い」で区別するのです。
「〇〇ちゃん!」と呼ばれるうちに「私の名前は〇〇」という自覚が芽生え、「はい、お靴を履きましょう」と言われるうちに「これは靴。この靴は私のもの」という自覚が芽生えるのです。
こうして人は長年に渡って、周囲のあらゆる形態に名称をつけることで、形態を個別に捉えるようになります。そしてその個体を「私のもの、他人のもの」と判断して分別するようになり、そこに「私」という自己が発生します。
SN-4-11-879
‘‘Kathaṃsametassa vibhoti rūpaṃ, いかに・修行する 滅する 形態が sukhaṃ dukhañcāpi kathaṃ vibhoti; 楽が 苦が・あるいはまた いかに 滅する Etaṃ me pabrūhi yathā vibhoti, それが 私に 説いて下さい どのように 滅する taṃ jāniyāmāti me mano ahu’’. それを 知りたいと 私の 心は 存在
どうすれば形態が
消滅するのですか?
また、楽しみや苦しみは
どうすればなくなりますか?
どのように消滅するのか
私に教えてください。
それが知りたくて
私の心はいっぱいです。
解説
周りを認識して生まれる「好き・嫌い」という感情に基づいて、「自分の世界=形態」ができあがります。人は何か新しい刺激に接触すると、この「自分の世界観」を判断基準にします。しかしこれは客観的な評価ではなく、自分の都合・自分の主観です。自我が作り上げた形態なのです。
初めて犬を見た子供が吠えられて「怖い」と感じれば、その子供は犬を怖がるようになります。また、子供が何かをして親に怒られたとき、その怒り方が子供の予測と違った場合、子供は親に対して恐怖感を抱くようになります。その恐怖感は、やがて親を憎む感情に変わります。
恐怖そのものは脳の反応ですが、何を怖がるかは学習によるものです。心理学では、このプロセスを「恐怖条件づけ」と呼びます。つまり恐怖心はインプットなのです。その子供にとってインパクトが強ければ1回でも怯えるようになります。いったん恐怖心を抱くと、それをなくすことは難しいのですが、インプットはとても簡単なので、どんどん増えていきます。
そして、ある刺激に条件づけられた反応が、他の似たような刺激に対しても反応する現象を、心理学では「般化」といいます。自分の中で「一般化」して当たり前のものにする現象です。これが「自分自身の世界観」となるのです。
人は、このようにたまたま遭遇したその経験を基に「自分の世界観」を捏造し、決してそれを変えようとはしません。さまざまなトラブルを起こして、原因が自分の世界観だとわかった時でさえも、それを変えるのは容易ではありません。
高度な知識を取得しても、社会的な立場を築いても、結局は「好きか嫌いか」という基準で判断して、自分の世界観を基にあらゆるデータを処理します。客観的なデータ分析ではなく、その人の都合、その人の主観であり、他者のことは関係がないのです。だから争いが起きるのです。
SN-4-11-880
‘‘Na saññasaññī na visaññasaññī, ない 思考で・知覚する ない 誤った思考で・知覚する nopi asaññī na vibhūtasaññī; ない・また 知覚しない ない 消滅で・知覚する Evaṃsametassa vibhoti rūpaṃ, このように・行う人は 消滅する 形態が saññānidānā hi papañcasaṅkhā’’. 思考を・原因として 実に 妄想・と呼ばれるものは
考えを加えて知覚しない
間違った考えを加えて知覚しない
また、知覚しないのでもない
知覚をなくすのでもない。
このように行うなら
思考によって生じた捏造に過ぎない
形態が消滅する。
解説
知覚は、外からの刺激を感覚として自覚し、刺激の種類を意味づけて把握することです。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、感情による感覚情報をもとに、過去の記憶内容などと照合して「熱い」「甘い」など、自覚的な体験として再構成する処理です。
人は思考によって、あらゆる形態を捏造しているに過ぎません。一輪の薔薇の花があったとしても、それに対して抱く知覚は人それぞれです。他者の抱く知覚を知ることは決してできません。「綺麗だね」と同じものを見て共感したとしても、全く同じ感覚ではないのです。むしろ大きく異なるのです。
まず、見ている部分が花弁だけだったり、葉っぱも含めた全体像だったり、目が意識して捉える部分がそれぞれ違います。さらに、それぞれの人の思考回路の分析によって、「この深みのある紅色は綺麗だ」とか「華やかな雰囲気で匂い立つようだ」とか、「山本リンダがくわえていそうな薔薇だ」とか、その人のそれまでの経験によって違ってくるのです。
そもそも紅色はどんな色なのか? 印刷業界では「マゼンダ90 + イエロー56 + スミ5% だ」とか、WEBカラーでは「R 225 + G 52 + B76 だ」と言われて、明確に特定の色を想像できるでしょうか? 実際に数値通りに刷った印刷物の色も、湿度など様々な環境に左右されてブレますし、WEBだって、それぞれのデバイスの設定や、デバイス周辺の光源によって違った色に変わります。
つまりあらゆるものは、便宜上なんらかのルールで基準化されていたとしても、本質は相当に危うい「心の捏造」でしかないのです。
SN-4-11-881
‘‘Yaṃ taṃ apucchimha akittayī no, 何事も あなたに 質問した 説明した 私たちは Aññaṃ taṃ pucchāma tadiṅgha brūhi; 他の あなたに 尋ねます それをどうか 説いて下さい Ettāvataggaṃ nu vadanti heke, これだけ・最高の かどうか 説く 実に・ある人は Yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse; 人の 浄化を この世の 賢者たちは Udāhu aññampi vadanti etto. あるいは 他のものも 説く この後
あなたは私たちの質問に
すべて答えてくれました。
どうかもう1つ教えてください。
この世の賢者たちの中には
形態を消滅することが
人の浄化の最高到達点だと
説く人がいます。
それ以上に他のものを
説く人はいないのですか?
解説
このスッタ集は「争いと口論」がテーマですが、どんどん教えは深まり、精神的な到達点、つまり悟りの最終レベルについて質問されます。
SN-4-11-882
‘‘Ettāvataggampi vadanti heke, これだけが・最高 説きます 実に・ある人は yakkhassa suddhiṃ idha paṇḍitāse; 人の 浄化を この世の 賢者たちは Tesaṃ paneke samayaṃ vadanti, 彼らの 他のある人は 断滅を 説きます anupādisese kusalā vadānā. 無・生存に依存する 巧みだと 言う
確かにこの世の賢者たちの中には
形態の消滅こそが
人の浄化の最終到達点だと
説く人もいる。
しかし賢者の中には、
熟練すれば生存に
しがみつくこともないと言って
断滅を説くこともある。
解説
ある賢者達は、「形態の消滅」こそが心の浄化の最終段階であると主張します。しかし、別の賢者達は「一切が無になること=(精神も肉体も)残りなく消滅すること=〔生存の〕依り所が一切ないこと(無余依)」が浄化の最終段階だと説いています。
SN-4-11-883
‘‘Ete ca ñatvā upanissitāti, これらの と 知って 関連がある ñatvā munī nissaye so vimaṃsī; 知って 覚醒者は 依存するものを 彼は 考察する Ñatvā vimutto na vivādameti, 知って 解放された ない 争う bhavābhavāya na sameti dhīro’’ti. 生存・非生存に ない 近づく 勇者は・と
覚醒者は、これらの二者を
まだ依存のある者だと知り
その依存の思いに気づいたなら
争いごとには巻き込まれず
勇者は輪廻に近づくことはない。
解説
前の882のスッタでは、2タイプの賢者が、自分の知識の中にまだある依存性を理解しないまま、目標の尺度として自分の知識にこだわっています。覚醒者はそのことに気づいているのです。
最初の賢者は、知覚も非認識もない経験を最終段階だと勘違いしているので、「その集中状態(最終段階のジャーナ)にまで至ったぞ」という達成感のある自分に依存しています。2番目の賢者は、熟練していると主張すること自体に、「私は他者よりも知っている」という潜在的な驕りがあるので、執着から完全に解放されていません。
両者ともに、「浄化される心」という概念を依然として維持しています。これらの依存関係を理解すれば、人は争いから解放され、「成る」と「成らぬ」の状態から解放されます。知識は目的への助けとなっても、目的自体が知識の観点から測られたり定義されたりすることはないのです。
Kalahavivādasuttaṃ ekādasamaṃ niṭṭhitaṃ. 争いと口論 スッタ集 11番目 終わり
11. 争いと口論のスッタ集 終わり
まとめ
「仕事があるから無理」「家族がいるからできない」と言い訳するのは、本当は自分がやるべきことに自信が持てず、先送りする心に他なりません。自分を縛るのは、他者でも何かでもなく、この自分自身の心なのです。仕事のせいにしたり、家族のせいにしたり、何かのせいにすることが「依存」です。自分が執着するものがあるからです。自分自身から解放されることが悟りであり、解脱です。