12. Cūḷabyūhasuttaṃ まとめ(小)②
まとめ(小)の続きです。真理は1つしかないはずなのに、多くの論争者が異なる真理を主張し、自分の論を認めて欲しいと願っています。
SN-4-12-893
Diṭṭhe sute sīlavate mute vā, 見たこと 聞いたこと 戒・掟 思想 あるいは ete ca nissāya vimānadassī; これらに と 依って 軽視・見る者 Vinicchaye ṭhatvā pahassamāno, 判断して 立って 喜びながら bālo paro akkusaloti cāha. 愚かで 他は 無能だ と・言う
見たことや聞いたこと
戒律や掟、あるいは思想
といったことによって
他者を見下す者は
自分の判断に基づいて得意げに
他は愚かで無能だと言う。
解説
自分が正しいと思い込んでいる人は、常に「自分は正しい。相手は間違っている」という判断をしています。つまりここで大切なのは、真理か否かではなく「私の意見」なのです。私の意見に賛同する人はいい人で、私の意見を否定する人は嫌な人なのです。それは「私」が何よりも大切で守りたいものだからです。守りたい「私」の意見に反する人は、間違っている人であり「敵」なのです。
SN-4-12-894
Yeneva bāloti paraṃ dahāti, それをもって 愚かだと 他を 決めつける tenātumānaṃ kusaloti cāha; それ故に・自分が 巧み と・言う Sayamattanā so kusalo vadāno, 自ら・自分が 彼は 巧み 言いながら aññaṃ vimāneti tadeva pāva. 他を 軽蔑する その時まさに 語った
彼は他者を愚かだと決めつけ
自分は優れていると言う。
自ら自分を正しいと言って
他者を見下し、自説を語るのだ。
解説
対立する人を間違っている=愚かだと判断して、自分は正しいと思うのは、全くもって幼稚な考えでしかないのですが、世間一般ではよくある考え方です。特に歳を取れば取るほど、経験を積めば積むほどに、その傾向は強くなります。私の方が経験がある=正しい、と思いがちですが、経験が増えるたびに、心は自分に都合よくアップデートされ、「私」が強化されていきます。
SN-4-12-895
Atisāradiṭṭhiyāva so samatto, 過誤な・見解により 彼は 完璧に mānena matto paripuṇṇamānī; 慢心により 狂い 思いあがる Sayameva sāmaṃ manasābhisitto, 自分だけを 自ら 心に・聖別する diṭṭhī hi sā tassa tathā samattā. 見解は なぜなら 彼の その そのように 完璧だから
行き過ぎた考えによって
自分を完璧だと思い込み
自信過剰で思い上がる。
心の中では自分を立派だと思う。
彼の意見は完璧なのだから。
解説
「自分が考えたすごい企画」があったとします。自分ひとりで考えたつもりでも、それを考案するには、他からの多くの情報が必要だったはずです。全くの無から創造しているつもりでも、全てが既存の考えを選びとって再構築した結果です。「自分が考え出した」とは、自信過剰の思い上がりなのです。
自分だけがやり方を知っていると思ったり、自分の指示に周りが従ってくれると期待したりすると、プライドが高くなります。私たちが行うすべての行為は、元々は他から教わったことです。自分で考えているつもりでも、その考え方も教わったもので、全ては外の世界から受けた影響の結果です。私たちは、自分の意志でものごとを判断しますが、その判断も他者の影響を反映させたものです。自分の好みで選んだものも、元々は他から影響を受けた好みでしかないのです。
そのことに気づかずに「私の考え」は「他とは違う」と区分することで、他との分離ができます。その考えが偏って行き過ぎた考えになり、偏りが強ければ強いほど、他から遠のくので、他がますます愚かに感じられて、「私は完璧」だと感じるようになります。こうして確固たる「私・自分」が構築され、同時に「私以外の他者」が出来上がります。
しかし「私・自分」という存在は、「私以外の他者」を反映させた存在に過ぎないのです。
SN-4-12-896
Parassa ce hi vacasā nihīno, 他の もし 実に 言葉により 下等 tumo sahā hoti nihīnapañño; 我は 共に なる 下等・智慧の Atha ce sayaṃ vedagū hoti dhīro, また もし 自ら 賢者は なる 賢い na koci bālo samaṇesu atthi. ない 誰も 愚か者は 修行者には 存在
もし他者の言葉によって
劣った人になるのなら
そう言う人も同じく
智慧の劣った人になる。
また、自分は賢い
と思うだけで賢者になるなら
修行者には愚か者は
存在しないことになる。
解説
他者の言葉によって劣った人になったり、自分は賢いと思うだけで賢者になれるなら、すべての人が劣った人になり、同時に賢者ともなります。つまり、あり得ないということです。
SN-4-12-897
Aññaṃ ito yābhivadanti dhammaṃ, 異なる これと 人・説く ダンマを aparaddhā suddhimakevalī te; 反する者 清浄に・完全な者 彼らは Evampi titthyā puthuso vadanti, このように 信じる者は 様々に 論じる sandiṭṭhirāgena hi tebhirattā. 自己の見解の・貪欲に 実に 彼は・染まる
これと異なる教義を説く者は
浄化に反する者で完璧ではない。
このように信じて
さまざまに論じる者は
自分の考えに執着して
溺れている。
解説
欲望とプライドは覚醒への道を阻むものです。もし私たちが周囲に執着しすぎて、周囲を自分と同一視してしまうと、私たちの欲望は大きくなり、ますます自分の考えに固執していきます。その時に問題なのは、考え方や見方が正しいか間違っているかではなく、自分と他者を比較することが問題なのです。
SN-4-12-898
Idheva suddhi iti vādayanti, ここに・だけ 純粋が と 論じる nāññesu dhammesu visuddhimāhu; ない・異なる ダンマに 純粋が・と言う Evampi titthyā puthuso niviṭṭhā, このように 信じる者は 様々に 固執して sakāyane tattha daḷhaṃ vadānā. 自分の方法を そこに 強く 論じる
ここにだけ純粋さがあると論じて
他の教義は純粋ではないと言う。
このように信じる者は
それぞれに固執して
自分の道を強く論じる。
解説
自分は純粋だと言いながら、他を純粋ではないと批判する態度は、純粋な人の言動ではありません。しかしながら、このようにして仏教には、さまざまな宗派が生まれたのです。
SN-4-12-899
Sakāyane vāpi daḷhaṃ vadāno, 自分の方法を しかも・また 強く 論じては kamettha bāloti paraṃ daheyya; 誰かをここで 愚か者と 他の 決めつける Sayameva so medhagamāvaheyya, 自分だけで 彼は 確執をもたらすであろう paraṃ vadaṃ bālamasuddhidhammaṃ. 他人を 言いながら 愚かな・不浄の・ダンマの者と
しかも自分の道を強く論じては
相手を愚かだと決めつける。
相手を愚かで不浄の道だと言って
確執をもたらすのだ。
解説
確執とは、互いに自分の意見を強く主張して譲らないことで、そこから起こる争いです。誰かを愚かだと勝手に判断して決めつける態度が、そもそも不純であり、その汚れた見方・考え方が争いを引き起こすのです。自分の極々狭い世界観での、わずかな経験則に基づいて判断するのですから、地球の塵(ちり)のぼやきにもなりません。
人は自分を基準にものごとを考えて行動します。本来、自己中心が基本姿勢です。痛みを感じたことがない人には、他人の痛みを理解できません。人の悩みや苦しみを理解できる人は、結局は自分が味わった悩みや苦しみの経験を、他人に投影して他人の悩み苦しみを想像して理解するのです。
この場合も自己中心的であることに変わりはないのですが、常に他人の中に自分を見い出すことができると、人間関係の様々な問題が理解できるようになります。自分がなにかする時も、それを他人に投影してから行動すると、間違った行動が少なくなるのです。
自分が相手に言おうとする言葉や自分の態度を他人に投影し、「もし他人がこのような言葉・態度で自分に接したら、自分がどんな気持ちになるだろう」と、考えてみるのです。誰だってやさしく言ってほしいし、怒られたくはないのです。
SN-4-12-900
Vinicchaye ṭhatvā sayaṃ pamāya, 判断 立って 自分で 測って uddhaṃ sa lokasmiṃ vivādameti; 上へ 彼は 世において 論争になる Hitvāna sabbāni vinicchayāni, 捨てて すべての 判断を na medhagaṃ kubbati jantu loketi. ない 確執を 行う 人は この世で・と
自分で測って判断し
世間で争いになる。
すべての判断を捨てた者は
世間で確執を起こすことはない。
解説
明らかに間違っていたとしても、それは「間違っている」と思う個人の判断でしかないのです。どんなに間違ってみえることでも、相手には相手の「間違っていない」という思いがあり、どちらも同じ引力なのです。どちらかを優先させることはできないのです。
「判断しない」。ただそれだけで、人と争わなくて済むのです。
自分ひとりでは何ひとつ成り立たないことを理解する人は、傲慢な態度にはなりません。他者を侮辱したり非難したり、好き勝手に感情をむき出しにもしないのです。常に協力してもらえるように、謙虚で素直に生きようとするのです。
Cūḷabyūhasuttaṃ dvādasamaṃ niṭṭhitaṃ. 小さな・まとめ・スッタ集 12番目 終わり
12. まとめ(小)のスッタ集 終わり