13. Mahābyūhasuttaṃ まとめ(大)①
第4章「8つのこと」の13番目のテーマは「Mahā(大きな)+ byūha(まとめ)」、ブッダの教えのまとめ(大)です。
前のスッタ集「12. まとめ(小)」では、「執着する知識者は、知識にしがみつき、賞賛を得ることで他者を見下し、相対的に自分の地位向上を図る。執着から解放された智慧者(アラハン)は、知識に無関心で、他者をなだめることができ、すべての争いを克服する」というブッダの教えでした。このスッタ集では、争いが絶えないこの世の中で、私たちはどうすれば解放されるか、についてのまとめです。
SN-4-13-901
Ye kecime diṭṭhiparibbasānā, 彼らは 誰でも 見解に・別々に住む idameva saccanti vivādayanti; これだけ 真理だと 論争する Sabbeva te nindamanvānayanti, すべてが・実に 彼らは 非難・受ける atho pasaṃsampi labhanti tattha. 時に 賞賛を・も 得る そこで
自分の意見に固執して
「これこそが真理だ」
と論争する人々は
確かに非難を受けますが
一方で賞賛も得ています。
解説
「論争者は非難も受けるが、少なくとも賛同者がいて、賞賛もされているのでは?」という質問です。
SN-4-13-902
Appañhi etaṃ na alaṃ samāya, 少ない それは ない 十分に 寂静のために duve vivādassa phalāni brūmi; 2つ 論争の 結果は 説く Etampi disvā na vivādayetha, このように 理解して ない 論争する khemābhipassaṃ avivādabhūmiṃ. 涅槃と見て 否・論争の境地を
賞賛を得てもわずかで
寂静を得るのに十分ではない。
論争によって非難と賞賛の
2つの結果を受けるのだから。
論争のない境地が
涅槃なのだと理解して
論争してはならない。
解説
論争して賞賛を得たとしても、必ず同時に非難も受けるのですから、それに対する怒りや苛立ちがあり、心は穏やかではありません。このことを理解して、そもそも「争いのない境地が涅槃だ」ということに気づき、論争はしないように、ということです。
SN-4-13-903
Yā kācimā sammutiyo puthujjā, 何であれ 何・まで・いかなる 一般的意見 個々の sabbāva etā na upeti vidvā; すべての これらは ない 近づく 賢者は Anūpayo so upayaṃ kimeyya, 無執着は 彼は 接近 どうしてするだろうか diṭṭhe sute khantimakubbamāno. 見たもの 聞いたもの 我慢強い・ない・実行する
常識や慣習といった
世俗のあらゆる考え方から
賢者は一線を引いている。
見たり聞いたりしたことで
行動しない執着しない者が
どうして巻き込まれるだろうか。
解説
賢者は常識的な考え方とは一線を引いています。私たちは「常識」と言われると、つい反射的に従ってしまいますが、その常識は真理なのでしょうか? 「あれ? 変だな」と思っても、どう変なのかがわからず、自分が間違っている気がして従ってしまったりします。なぜでしょう? その方が楽だからです。「常識」は実行しやすいことなのです。真理ではありません。賢者はその「楽な生き方」が危険なことを、知っているのです。
SN-4-13-904
Sīluttamā saññamenāhu suddhiṃ, 戒を・最上 自制と・言う 清浄は vataṃ samādāya upaṭṭhitāse; 掟を 受諾し 用意された Idheva sikkhema athassa suddhiṃ, これこそ 学ぶ また・ここに 清浄は bhavūpanītā kusalā vadānā. 生存・もたらされ 巧みだと 説く
戒律を最も重視する人は
課された掟を守り、
浄化は自制心の問題だと言う。
「この教えこそが学ぶべきで
これによって浄化される」
と説く達人たちは
輪廻によって生まれ変わる。
解説
戒律であれ法律であれ、「社会の決まり」を守ることは大切なことです。しかし、ただ守ればよいわけではありません。戒律を怠けて破ることと、正しい智慧によって応用することは違います。どんな決まりも、状況や現実にそぐわない場合があるのです。それを正しく理解せずに原則に固執し、その場その場の適応を無視して、原則論を機械的に適用しようとすることで、対立が起こります。
SN-4-13-905
Sace cuto sīlavatato hoti, もし 外れる者に 戒・掟から 存在する pavedhatī kamma virādhayitvā; 怖れる 行為を 失敗して Pajappatī patthayatī ca suddhiṃ, 願い求め 熱望 また 清浄を satthāva hīno pavasaṃ gharamhā. 師から・ように 見捨てられた者 離れて住み 家から
もし戒律や掟を破ったならば
悪い行いをしたと震え上がり
浄化を切望して願う。
師から見捨てられた
行き場のない出家者のように。
解説
本来、「暴力を振るってはいけない」という決まりがあるから「暴力を振るわない」のではありません。「自分が暴行されると嫌だし、身体も傷ついて困る。他の生き物も同じ思いなのだから、自分がされて嫌な『暴力は振るわない』」のです。すべての決まりは人が不幸にならないためにあるのであって、自由を拘束するためにあるのではありません。
戒律を立派に守ろうとする人は、この本来のあり方を忘れて、あるいは元々知らなくて、ただ厳守することだけを重視し、お互いが幸せに生きているかの配慮が欠けているのです。守れなかったら罪深いことだと罰を怖れたり、守らない人を厳しく非難します。
決まりを守らせることは、「正しさ」を他者に納得させるのが容易です。反論される可能性が低いので、楽に正当性を主張できます。原則論を振りかざす人は、相手の幸福を願っているわけではなく、楽に他者をコントロールできることに快感を得ているのかもしれません。
決まりを守っても守れなくても、自分のした行為と同じ結果を受け取るだけです。人は失敗して学ぶのです。嘆き怖れたり、非難するよりも、誰かが傷ついていることに気づいて、傷ついた人を助けるなり、次から改善するように努力(viriya)すればいいのです。
SN-4-13-906
Sīlabbataṃ vāpi pahāya sabbaṃ, 戒・掟を あるいは・また 捨てて 全てを kammañca sāvajjanavajjametaṃ; 行為を・また 有罪の・無罪の Suddhiṃ asuddhinti apatthayāno, 清浄で 否・清浄で ない・求めることは virato care santimanuggahāya. 自制する 行きなさい 寂静・ない・とらわれる
戒や掟をすべて捨てて
罪があろうとなかろうと
浄化だとか不浄だとか
求めることもなく
安らぎにすらとらわれずに
自制して生きなさい。
解説
元々ブッダは戒律や決まりを否定し、各々が自制すれば済むことだと考えていました。むしろ何かを守らせるというような強制力は、瞑想修行の妨げになる、と知っていました。しかしブッダの教えに追従する人が多くなり、自制できる人ばかりではなく、自制できない人も一緒に行動する中で、出家者が穏やかに修行するための規律が少しずつできていったのです。
最終的には男性出家者のための戒律は227、女性出家者には311の規則があります。
解脱して涅槃に到達した人(アラハン)は、自分の意思で悪いことをしないではなく、もう悪いことも善いこともできなくなった存在です。良い悪いの判断は、想像や願望、妄想から発生するので、それらを滅したアラハンは判断のしようがありません。良い悪いを判断せずに、起きた事実のみを受け入れます。
完全に執着がない状態なので、戒律も掟ももはや必要ないし、善も悪も、罰も罪も超越して、あらゆる判断・縛りから解放され、自由な心でただそこに幸福に存在しているだけです。人間は本来、ただ存在するだけで幸せな生き物なのです。戒律も掟も世俗の縛りの1つでしかなく、道の途中の人々のために便宜上あるものなのです。