15. Attadaṇḍasuttaṃ 暴力 ①
第4章「8つのこと」の15番目のテーマは「atta(棒を)daṇḍa(取る)=武器を取る=暴力」です。まとめも終わったのに、まだ続くからには何か意味があるのでしょう。
ヒマラヤ山麓に領土があったシャーキヤ(釈迦)族と、ローヒニー川をはさんで領土があったコーリヤ族の間で起こった争いについての記述です。両国は、同じ川の水で農業を営んでいましたが、この年は水不足で、農民たちは自分の畑に川の水を溜め込み、争いとなりました。争いはエスカレートして、両国が武器をとって闘う戦争になりました。両族の親戚であり、両国の人々から尊敬されていたブッダが、その間に入って仲裁した際のブッダの発言です。
SN-4-15-941
‘‘Attadaṇḍā bhayaṃ jātaṃ, 取る・棒から 恐怖が 生じた janaṃ passatha medhagaṃ; 人々を 見なさい 殺し合う Saṃvegaṃ kittayissāmi, 驚怖を 私は語ろう yathā saṃvijitaṃ mayā. ように 驚怖 私の
棒を握ったから
恐怖が生じたのです。
殺し合う人々を見なさい。
私が受けた戦慄を
感じたままに話しましょう。
解説
敵とみなして自分と区別する思いから、自分を守るために棒(武器)を取ったことで、恐怖が生まれたということですが、「武器」は本来、宇宙のどこにも存在しません。
人が手にして攻撃に用いれば、さまざまな物質が武器となります。この場合では、棒という物質の性質が、恐怖心によって生み出された攻撃の運動エネルギーが付加されることで武器に変化したのです。
道端の石も、それを拾って誰かに投げつけた瞬間に武器に性質が変わるのです。
SN-4-15-942
‘‘Phandamānaṃ pajaṃ disvā, 震えている 人々を 見て macche appodake yathā; 魚たちを 少水の ように Aññamaññehi byāruddhe, 互いに 対立する人々を disvā maṃ bhayamāvisi. 見て 私は 恐怖が・わいた
水の少ない池の中で
もがく魚のような人々を見て
互いに敵意をむき出す人々を見て
私は恐ろしくなりました。
解説
少なくなった川の水をめぐって争う人々の様子を、水が足りなくて苦しむ魚に例えています。
SN-4-15-943
‘‘Samantamasāro loko, どこにも・実体はない 世の中は disā sabbā sameritā; 方角 一切の 動いている Icchaṃ bhavanamattano, 求めても 居場所は・自分の nāddasāsiṃ anositaṃ. ない・見つけた 住んでいない
世の中にはどこにも
確かなものはなく
あらゆるところで
人の心は動揺しています。
自分の居場所を求めても
安らげる場所を
見つけられませんでした。
解説
ブッダは王族としての安逸な生活に飽き足らず、人生の真実を追求しようと29歳で出家しました。しかし、どこに行っても苦しみがあり、人々の心が穏やかではなく揺れ動いているのを見て、人生の無常や苦しみを痛感しました。
SN-4-15-944
‘‘Osānetveva byāruddhe, 結末において・しかし 対立する人々を disvā me aratī ahu; 見て 私に 不快が あった Athettha sallamaddakkhiṃ, 時に・ここに 矢を・認めた duddasaṃ hadayanissitaṃ. 見難い 心に刺さる
しかし最後には必ず
対立する人々を見て
私は不快になりました。
そしてその時、
見えない矢が心に
突き刺さるのを理解したのです。
解説
どこでも結局、最後は争いになってしまうのを見て、ブッダは不快に思うだけでなく、その時に自分の心を観察し、その原因を理解しました。
人が争う時、人の心は矢が突き刺さったような痛みを感じます。ハートに矢が刺さった失恋マークを思い出してください。あの感覚です。人から言われた言葉、されたこと、感じたことで、グサっと心が傷つく、あの感覚のことです。心が折れたり、的を射た指摘だったり、後ろからハンマーで殴られたようなショックだったり、誰もが体験する痛みの感覚です。
この痛みは、暴力を受けた時に感じる感覚ですが、暴力とは、身体的な暴力・言葉の暴力・精神的な暴力の3つです。
SN-4-15-945
‘‘Yena sallena otiṇṇo, そこから 矢によって 陥った disā sabbā vidhāvati; 方角に 一切の 走り回る Tameva sallamabbuyha, その・さえ 矢を引き抜けば na dhāvati na sīdati. ない 走る ない 落胆する
矢に射られて陥った者は
心があちこちへと
走り回るのです。
その矢さえ引き抜けば
奔走することはなく
落胆することもないのです。
解説
人は何か大きな刺激(ショック)があると、心が動揺し、それをなんとかしようと過去に未来に思考が走り回って、心ここにあらずの状態になります。
SN-4-15-946
‘‘Tattha sikkhānugīyanti, そこで 訓練が・学ばれる yāni loke gadhitāni; それらが この世で 束縛するもの Na tesu pasuto siyā, ない それらに 熱中する あるだろう nibbijjha sabbaso kāme; 洞察して 完全に 欲を Sikkhe nibbānamattano. 学ぶように 涅槃を・自己の
訓練することで学びなさい
この世で束縛するものが何かを。
欲のすべてを完全に洞察すれば
それらに夢中になることも
なくなるでしょう。
自己の消滅、つまり涅槃を学ぶように。
解説
その苦しみ、痛みから抜け出す道が訓練です。外部からのあらゆる刺激に対して反応することなく、大切な自我を守ろうとしなければいいのです。それがつまり自我の消滅、涅槃です。