第4章 8つのこと:15. 暴力 954〜960

15. Attadaṇḍasuttaṃ 暴力 ③

暴力についての最後です。

SN-4-15-954

‘‘Yodha kāme accatari, 
彼は・ここに 欲望を 超えた
saṅgaṃ loke duraccayaṃ;
執着を この世で 越え難い
Na so socati nājjheti, 
ない 彼は 悲しむ ない・心配する
chinnasoto abandhano.
切断された・流れ 束縛がない

彼は欲望を克服したのです、
この世で越え難い執着を。
悲しむことも
心配することもなくなり
流れを断ち切って
束縛がなくなったのです。

解説

10の束縛すべてを克服するとアラハンです。人には欲望や執着があるから、悲しみや心配があるのです。欲望や執着がなくなれば、悲しみや心配もなくなるのです。

SN-4-15-955

‘Yaṃ pubbe taṃ visosehi, 
何でも 以前に それを 枯らす
pacchā te māhu kiñcanaṃ;
後に あなたに 有ってはならぬ 何ものも
Majjhe ce no gahessasi, 
中間に もし ない 取るならば
upasanto carissasi.
寂静者になり 歩むでしょう

過去の思いを消し去り
未来に何も思わず
もし現在あるものに
執着しないなら
あなたは穏やかに生きるでしょう。

解説

過去の出来事に、後悔したり思い出に浸ったり、どんな良い出来事も悪い出来事にも、心を動かさず、また、未来に対しても、夢や希望を持ったり、不安や怖れ、心配など、心を動かさないようにということです。過去・未来は心が作り上げる現象であり、個人の色眼鏡を通した捏造の世界です。それに対して、現在は実在であり、今この瞬間に何ものにも執着しなければ、心が動かされることはなく、穏やかに生きられるということです。

過去は変えられず、すでに終わった瞬間なので、それに囚われて現在から逃避したり、先送りにしたり、こだわることは現在の時間の無駄使いです。未来には、生まれたらいつか必ず死ぬということ以外に、確定している要素は一つもありません。死は決まっていることなので、不安や怖れを持って心配するのは無意味です。また、未来に期待することで、現在から逃避するのも、現在の時間の無駄使いです。

ヴィジョン心理学では、このように過去や未来にこだわることは、本来その人が対峙しなければならない現在の何かからの逃避である、としています。

SN-4-15-956

‘‘Sabbaso nāmarūpasmiṃ, 
全てが 名称・形態において
yassa natthi mamāyitaṃ;
彼に ない・存在 大切という思いが
Asatā ca na socati, 
存在しない また ない 悲しむ
sa ve loke na jīyati.
彼は 実に この世で ない 失う

名と形のある全てのものに対して
大切だという思う存在がなければ
存在しないものを悲しむことはなく
この世で失うものは何もない。

解説

私のもの、私の意見、私の考え、私の行動。これらはすべて私が作り出したイメージです。「私の◯◯」を大切にしよう、守ろうとするから、悲しんだり、不安になったりするのです。「私の◯◯」という思いをなくせば、失うものは何もなく、怖いものなし、になるのです。これが本当の心の解放です。

はじめて一人でヨーロッパを旅した時、誰も自分のことを知っている人がいない国で、見慣れない人種に囲まれたカフェに座り、「あー、私は何者でもない。ただここにいるだけの存在だー」と実感したのを覚えています。人々が語り合う言葉は理解できないので、単なる音でしかなく、行き交う人々は色彩のうごめきにしか見えず、視界全体が1面の絵のように感じられ、自分が何者でもない単なる存在になった気分で、まさに心の解放でした。

SN-4-15-957

‘‘Yassa natthi idaṃ meti, 
その人には ない・存在 これは 私のもの・と
paresaṃ vāpi kiñcanaṃ;
他人のもの あるいはまた 何もない
Mamattaṃ so asaṃvindaṃ, 
我執を 彼は ない・見出す
natthi meti na socati.
ない・存在 私のもの・と ない 悲しむ

「これは私のもの」という思いがなく
「あれは他の人のもの」と考えない人は
「自分の」という概念がないので
「私のもの」がないことを悲しむことがない。

解説

「私のもの」とか「他人のもの」という意識がないということは、私と他人という区別の意識がないということです。つまり「自分」という概念を持たなければ、全てが一緒であって区別もしないから、大切に守りたくなるような「私のもの」もなくなり、悲しむことがなくなる、ということです。「私のもの」という思いが強くなればなるほど、自分だけの小さな考えにとらわれて、内側に向かって吸引されるかのように、それから離れられなくなります。ブラックホールのようです。

SN-4-15-958

‘‘Aniṭṭhurī ananugiddho, 
ない・厳しい ない・貪欲
anejo sabbadhī samo;
ない・渇望の 一切の・場において 平等
Tamānisaṃsaṃ pabrūmi, 
それを・良い結果として 私は説く
pucchito avikampinaṃ.
問われたら 動揺しない人を

厳しくない、欲がない、渇望しない、
どんな状況でも誰に対しても平等。
動じない人について問われたら
私はこの利点を挙げます。

解説

Aniṭṭhura:粗暴ではない、厳しくない、残酷ではない、憎しみがない人。ananugiddha:貪欲ではない人。aneja:渇望しない人。sabbadhī sama:あらゆる場合に平等である人。この4つが動じない人=アラハンの利点です。人は心地よいものに心を躍らせ、嫌なものには心を縮めてしまいます。動じない人は、揺るぎない心を持っています。

欲がない」と「渇望しない」はどちらも欲ですが、その違いは、欲がない=あれこれ欲しいと思わない、渇望しない=もっと〇〇したいという切望がない、ということです。欲は顕在意識に働きかけるもので、渇望は生存本能に基づく無意識の欲、潜在意識から発生するものと解釈しています。

SN-4-15-959

‘‘Anejassa vijānato, 
動揺しない 理解した人には
natthi kāci nisaṅkhati.
ない・存在 どんな 作為も
Virato so viyārabbhā, 
離れた 彼は あらゆる種類の努力から
khemaṃ passati sabbadhi.
安穏を 見る 一切の・場で

動じない、悟った人は
どんな造作も心に抱かない。
何かをしようと
努めることを捨てた人には
あらゆる場面が幸せに見える。

解説

本来、あるゆる存在(人も動物も石もバクテリアも何もかも全て)は、ただそこにあるだけでいいのです。ただ存在するだけで何も問題はありません。自然に従って、自然のままに存在していれば、何も心配したり、怖れたり、期待したりする必要はないのです。だから私たちが何かをしよう、と努力することは、実は自然にあがらうことであって、余計な努力なのです。

SN-4-15-960

‘‘Na samesu na omesu, 
ない 等しい ない 劣った
na ussesu vadate muni;
ない 優れた 説く・ない 覚醒者は
Santo so vītamaccharo, 
寂静な 彼は 離れた・物惜しみを
nādeti na nirassatī’’ti.
ない・取る ない 投げ放つ と

覚醒者は自分を同じだとか
劣っているとか
優れているとか考えない。
穏やかで利己を離れた人は
取ることも、拒絶もしない。

解説

あらゆる存在を区別しない覚醒者には、自分という意識がなく、あらゆるものにありのままに接することができます。そこには利己の元である自己が存在しないので、自分のものにしようとする行為が発生しないのです。また、そもそも自分のもの、他の人のものと言う意識がないので、何かを取る=自分に引き寄せる何かを拒絶する=自分から引き離すということもありません。

私たちは何かに接する時、常に過去の記憶と照らし合わせて、判断を加えて接しています。しかし覚醒者はその判断を常にリセットして、あらゆる場面においてありのままに接することができるということです。初めての時には、あんなにありがたかった体験も、回を重ねるうちにありがたみがなくなり、不満がどんどん出てくるのが人の常ですが、覚醒者は常に初めて接するかのように接することができるのです。

Attadaṇḍasuttaṃ pannarasamaṃ niṭṭhitaṃ.
暴力・スッタ集 15番目 終わり

15. 暴力のスッタ集 終わり