16. Sāriputtasuttaṃ サーリプッタのスッタ集
第4章「8つのこと」の最後は「サーリプッタ」です。サーリプッタはブッダが最も信頼していた弟子です。ブッダの弟子の筆頭格で、親友のモッガラーナと共に、ブッダの二大弟子と呼ばれています。
このスッタ集では、修行者は何に専念すべきかと問うサーリプッタに対して、修行者がどのような生活を送るべきかを教えています。前半の961〜968がサーリプッタのブッダに対する謝辞と質問で、後半の969〜981がブッダがサーリプッタに答えた回答です。
サーリプッタについて
サーリプッタは元々バラモン階級の裕福な生まれでしたが、バラモン教にとらわれず自由に思考を巡らせて、真理の法を求めて行者となり、親友のモッガラーナと一緒にサンジャヤ・ベーラッティプッタに師事していました。
ある日、ブッダの弟子のアッサジ(ブッダが涅槃に至って最初に教えを説いた5人の弟子のひとり)に出会い、アッサジのその威厳ある姿や洗練された所作を見て「ただ者ではない」と感じ取りました。サーリプッタ はアッサジの後を追って、「あなたの師はどんな人で、どんな教えを説いているか?」と尋ねました。アッサジがブッダとその教えの一部を伝えると、サーリプッタはその場で悟りの第1段階ソータパンナに到達しました。
サーリプッタは悟りの道を見つけた吉報を、師匠のサンジャヤや親友のモッガラーナ、そしてサンジャヤの弟子たちに伝え、「みんなで一緒に改宗してブッダの元で出家しよう」と提案しました。サンジャヤはこれを拒み、モッガラーナとサンジャヤの弟子250人がサーリプッタと一緒にサンジャヤの元を離れて、自分よりも年少のブッダの元に出家しました。
このスッタ集のやりとりは、サーリプッタ がブッダの元に出家した際のやりとりだと思います。そしてサンジャヤの弟子250人が、このスッタ集に出てくる「衆」です。サーリプッタは、出家して2週間で最終段階のアラハンとなりました。
その後ブッダは、弟子たちの集まりの中で、サーリプッタは最も智慧に長けた人だと宣言しました。ブッダから認められたサーリプッタは、サンガの指導的役割を担い、他の僧侶の世話、瞑想の対象の割り当て、教義の解明などを担いました。アビダンマ(より深い教え)にも習熟し、全てブッダから直接学んだといわれています。
サーリプッタは非常に謙虚で、決して怒らない人、何が起きても気にせず飄々として、常に落ち着いている人でした。ある時、托鉢にでかけたサーリプッタが、突然何者かに後ろから殴打されました。サーリプッタはよろけながらも、振り返りもせず、そのまま歩き続けたのです。
ブッダはサーリプッタをとても信頼し、息子のラーフラが出家した際には、サーリプッタを師とし、ラーフラを預けています。
サーリプッタは死際も見事でした。自分の死が7日後であることを悟り、母親に会うために故郷のナーランダを訪れます。
母親は、サーリプッタ がバラモン教を捨ててブッダに改宗したことに不満を持っていました。訪ねてきた息子のサーリプッタ が、まだブッダに帰依していることを知って不機嫌になりますが、サーリプッタ がブッダの教えを説くと、悟りを得てソータパンナとなります。サーリプッタは母親が悟りを得たことを見届けて、翌朝、病気で亡くなりました。
サーリプッタの遺体は火葬にされ、同行していたチュンダが、遺骨と托鉢、外衣をブッダのいるサーヴァッティに持ち帰りました。ブッダにサーリプッタ が亡くなったことを伝えると、ブッダはサーリプッタの遺骨を掌にのせ、全てが無常であることを語ったそうです。
SN-4-16-961
‘‘Na me diṭṭho ito pubbe, ない 私は 見る これより 前に (iccāyasmā sāriputto) と・尊者 サーリプッタは Na suto uda kassaci; ない 聞いたことがある また 誰かから Evaṃ vagguvado satthā, このような 快い・語る 師は Tusitā gaṇimāgato. トゥシタ天から 衆主・来た
尊者サーリプッタ:
私はこれまで見たことも、
誰からも聞いたことがありません。
こんな素晴らしい言葉を語る先生が
トゥシタ天から私たちに教えに来たのです。
解説
トゥシタ天とは、31の存在界のうちの1つで、6つある天界(デーヴァ界)の1つです。ブッダはトゥシタ天から降下して、マーヤー夫人の胎内にゴータマ・シッダッタとして宿ったと言われています。「私たち」は、サーリプッタとモッガラーナと250人の弟子たちのことで、サーリプッタはその代表として話しています。
SN-4-16-962
‘‘Sadevakassa lokassa, 天と共にある 人々に yathā dissati cakkhumā; ように 見える 洞察力のある人は Sabbaṃ tamaṃ vinodetvā, 一切の 闇を 追い出して ekova ratimajjhagā. 一人で・実に 喜びを感じること・到達した
天界を含むこの世の人々にも
わかるように洞察力のある人は
一切の心の闇を追い払い
たった一人で涅槃に到達しました。
解説
「たった一人で」という部分が、このスッタのキーワードです。
私たちがブッダと呼んでいる人は、ゴータマ・ブッダのことで、ゴータマ・シッダッタが涅槃に至ってブッダ(覚者)となった人です。「buddha(ブッダ)」は、本来「真理を覚った人・覚者」につける称号です。ですからブッダは、ゴータマ・ブッダ以前にも以降にも、たくさんいます。
ゴータマ・ブッダが他のブッダと違う点は、誰かに教えられて涅槃に至ったのではなく、自分自身の能力で涅槃に至り、なおかつ真理を他人に語る能力を持つ人「sammāsambuddha(サンマー・サン・ブッダ)」だという点です。
ブッダには3種類あり、他にアヌ・ブッダとパッチェーカ・ブッダがいますが(詳細はこちら)、サンマー・サン・ブッダは別格です。
この世には2500年に一度、最大で5人のサンマー・サン・ブッダが現れるといわれていて、ゴータマ・ブッダはその4人目です。そして現代は、ゴータマ・ブッダ没後2500年が経過し、5人目のサンマー・サン・ブッダが現れる時代であり、すでに「dhammacakka(法輪)」が回っていると一部ではいわれています。
これについては別の解釈もあり、ゴータマ・ブッダは7人目のサンマー・サン・ブッダで、新たなサンマーサンブッダは、ゴータマ・ブッダの教えが途絶えてから2500年後に出現するという説もあります。現代はまだブッダの教えが残っているので、サンマー・サン・ブッダの出る幕ではないということです。
SN-4-16-963
‘‘Taṃ buddhaṃ asitaṃ tādiṃ, それは 覚者 ない・依存 このような akuhaṃ gaṇimāgataṃ; 偽りのない 衆主・来た Bahūnamidha baddhānaṃ, 多くの・ここに 束縛された者のために atthi pañhena āgamaṃ. 存在する 質問を 伝承しに来た
何にも縛られず偽りのない
私たちのために到来したブッダに
多くの束縛された者のために
私は質問を伝えに参りました。
解説
このスッタでは、サーリプッタがブッダに訪問理由を告げていますので、ブッダとは初対面なことがわかります。
SN-4-16-964
‘‘Bhikkhuno vijigucchato, 修行者は 避ける bhajato rittamāsanaṃ; 親しむ 人のいない臥坐所に Rukkhamūlaṃ susānaṃ vā, 木の根元に 墓地に あるいは pabbatānaṃ guhāsu vā. 山中の 洞窟に あるいは
修行者は世俗を離れて
木のほこらや墓地
あるいは山の洞窟といった
人のいない場所で坐ります。
解説
この当時、修行者は深い瞑想修行をするために、人里を離れた寂しい場所、森の中や墓地、山奥の洞窟の中などで修行しました。
SN-4-16-965
‘‘Uccāvacesu sayanesu, 不規則な 臥坐所で kīvanto tattha bheravā; 多大な そこで 恐怖が Yehi bhikkhu na vedheyya, それに 修行者は ない 動揺するように nigghose sayanāsane. 静かな 寝床において
そこは安心できない場所であり
多大な恐怖があります。
その静かな場所で
修行者は心を動揺しないように。
解説
森の中で瞑想、というと森林セラピーを思い浮かべるかもしれませんが、癒しの森ではありません。ゾウや蛇がウジャウジャいるワイルドな原生林です。
SN-4-16-966
‘‘Katī parissayā loke, どれだけの 困難が この世に gacchato agataṃ disaṃ; 行く人にとって 未到の 敵 Ye bhikkhu abhisambhave, 彼らを 修行者が 克服する存在 pantamhi sayanāsane. 辺境の 臥坐所で
未到の地を行く者にとって
この世にどれほど多くの
困難があることか
辺境の場において
その敵を克服するのが
修行者なのです。
解説
「敵」とは、自分自身を縛っている自分の心のことです。
SN-4-16-967
‘‘Kyāssa byappathayo assu, どのような・彼の 言葉使い あるべきか kyāssassu idha gocarā; どのように・彼の・あるべきか ここで 範囲は Kāni sīlabbatānāssu, いかに 戒・誓いは・あるべきか pahitattassa bhikkhuno. 精進する 修行者は
修行者はどのような
言葉遣いであるべきか
行動はどうあるべきか
精進する修行者にとって
戒めや誓いはどうあるべきか
解説
涅槃に向かう修行者の行為について、言葉の行為、身体の行為、心の行為(戒めや誓いによる自制心)が、修行者にとってどうあるべきかを質問しています。
SN-4-16-968
‘Kaṃ so sikkhaṃ samādāya, 誰か 彼は 学びを 受けて ekodi nipako sato; 専一の 賢明な者 気づきある者 Kammāro rajatasseva, 鍛冶屋が 銀の・ように niddhame malamattano’’. 除去する 垢を・大小の
一つの道に専念し
賢明で思慮深い者は
誰から学びを受けて
鍛冶屋が銀の汚れを
除去するように
心の汚れを除去するのですか?
解説
賢明で思慮深い者とは、アッサジを指しているのではないかと思います。