10. Purābhedasuttaṃ 死ぬ前に ②
SN-4-1-861
‘‘Upekkhako sadā sato, 平常心は 常に 気づいている na loke maññate samaṃ; ない この世で 考え 同じと Na visesī na nīceyyo, ない 優れた ない 劣る tassa no santi ussadā. その人には ない 存在する 過剰な
常に平常心で気づいている
自分がこの世で他者と
同じだとも
優れているとも
劣っているとも考えず
その人には思い上がりがない。
解説
他者と同じだと考えて安心したり、優れていると考えて自惚れたり、劣っていると考えて卑下したりしないということです。人は常に自分のポジションを見定めています。自分というキャラを発信し、相手のキャラを読み取ることで、相対的に「私」を定義しているからです。
自分を優位に思ったり、卑下することはよくないというのは、わかりやすいと思いますが、「同じ」もダメなのです。同じであると定めて安心しようとする「自己」が、そこに存在するからです。自己があるということは、他があるということで、そこには区別=分離が発生するのです。
心を完成させるための「10のパーラミー」の8番目が「upekkhā(ウペッカー)平静さ」です。穏やかで動揺することのない平和な心です。楽しく(sukha)も苦しく(duḥkha)もない、平等でバランスの取れた感覚に偏りのない状態です。「楽しい! 嬉しい!わーい!」と喜ぶことも、「嫌だ! なんで! ガーン!」と悲しんだり苦しむこともなく、静かなバランスのとれた心で、その心の状態に常に「sati(サティ)気づいている(マインドフルネス)」のが覚醒者の心の状態です。
SN-4-1-862
‘‘Yassa nissayanā natthi, その人に 依存すること ない・存在 ñatvā dhammaṃ anissito; 知っている ダンマを ない・依存する Bhavāya vibhavāya vā, 生存にも 非生存にも あるいは taṇhā yassa na vijjati. 渇望が その人には ない・見出される
その人に依存するものがないのは
物事の本質をよく理解して
それを頼りにしないからだ
生きることにも死ぬことにも
その人にはなんの望みもない。
解説
「依存」とは「他に頼って存在すること」です。覚醒者は何かに依存することはありません。だからといってたったひとりで存在する、というわけではありません。たったひとり宇宙空間に投げ出されても、生きていくことはできません。私たちはあらゆる存在とともに、一体で相互に助け合って存在しているという「物事の本質」を、身を持って理解しているということです。
それは目に見える形であったり、見えない形だったり、人工的なものであったり、自然現象であったりしますが、さまざまなものが常に変化し続けて、存在しあっているということです。一般的な依存は、ある特定のものに対して頼りにする、心の支え(拠り所)とすることです。しかしその特定のものは、人であっても物であっても常に変化し、自分の希望通りの状態を保つことは不可能なのです。当然ですが、生きることも死ぬことも、誰にもコントロールできないことなのです。これが物事の本質=真理=ダンマです。
SN-4-1-863
‘‘Taṃ brūmi upasantoti, その人を 呼ぶ・私は 静まった人と kāmesu anapekkhinaṃ; 欲を 希望しない Ganthā tassa na vijjanti, 束縛は 彼に ない 見出される atarī so visattikaṃ. 超えた 彼は 執着を
私が「静まった人」と呼ぶ人は
欲を求めず、しがらみがなく
執着を克服している。
解説
何かを期待する、望むということは、欲求です。欲があると心は静かではいられません。よくも悪くも心が波立つのです。「gantha:縛り」は、引き留め、まとわりつくもの、邪魔をするもののことです。「しがらみ(柵)」とは、元々は川の流れをせきとめるため、杭(くい)を打ち渡し、竹や柴(しば)などを横にからませたものです。比喩的に、物をせきとめるもの、物事をひきとめる表現に使われる古語です。人の心は常に川の流れのように移り変わるものであり、その流れを堰き止めることはできないのです。
SN-4-1-864
‘‘Na tassa puttā pasavo, ない 彼に 子供 家畜 khettaṃ vatthuñca vijjati; 耕作地 屋敷・と 見出される Attā vāpi nirattā vā, 得たもの あるいはまた 捨てたもの あるいは na tasmiṃ upalabbhati. ない 彼には 見つける
子供も家畜も
田畑も家もなく
その人には
受け入れることも
拒むこともない。
解説
一般的に考えられる幸せは、子供がいて財産(かつては家畜)があり、土地があって家がある暮らしです。この当たり前の幸せを求めて、人は喜怒哀楽するのですが、それは世俗の価値観でしかありません。覚醒者は、物や人といった物質的な何かや、特定の考え方(価値観)を受け入れたり、拒否したりしません。
SN-4-1-865
‘‘Yena naṃ vajjuṃ puthujjanā, それをもって 彼は 語るだろう 普通の人は atho samaṇabrāhmaṇā; 時に 修行者・バラモンが Taṃ tassa apurakkhataṃ, それは 彼に 伴われず tasmā vādesu nejati. それ故 言われても 動じない
庶民あるいは修行者やバラモンが
いろいろなことを言うだろう
しかし彼は平然として
何を言われても動じない。
解説
apurakkhata:伴われず、一人の、という意味です。一般の人はもちろん、時には未熟な修行者やバラモンが、いろいろなことを言うでしょうが、世俗のことには一切とらわれないということです。
SN-4-1-866
‘‘Vītagedho amaccharī, 貪りを離れ ない・物惜しみ na ussesu vadate muni; ない 優れる 言う 覚醒者は Na samesu na omesu, ない 同じ ない 劣る kappaṃ neti akappiyo. 適切 しない 不適切は
欲がなくなり物惜しみもせず
覚醒者は自分を優れているとも
同じだとも劣るとも思わず
正しいとか間違っているとか
判断はしない。
解説
「macchariya(マッチャリヤ)物惜しみ」は、他者と共有するのが嫌ということで、他者を排除することです。つまりそこで分離が発生します。覚醒者には、他と自分というような隔たりが一切ありません。だから、なにかが正しいとか、間違っているとか判断することもないのです。正しいと判断するから、間違っている他者を劣ると思ったり、変えたいと思ったりするのです。
SN-4-1-867
‘‘Yassa loke sakaṃ natthi, 彼に この世に 自分のものが ない・存在 asatā ca na socati; ない・所有する と ない 悲しみ Dhammesu ca na gacchati, ダンマにおいて と ない 行く sa ve santoti vuccatī’’ti. 彼は 実に 寂静者と 言われる・と
この世には
自分のものなどないのだから
ないものを嘆くこともない。
まさに寂静な人であり
自然の法則によって
生まれ変わることはない。
解説
最後の2行は、大変悩みました。直訳すると「ダンマ(自然の法則)において行かない」です。gacchati は「行く・歩く・生きる」なので、「生きない=死んでも生まれ変わらない」と解釈しました。このスッタ集のブッダの回答である13のスッタの中に、覚醒者の最大の特徴である輪廻転生からの解脱が出ていないので、締めはこれでいいのではないでしょうか。
Purābhedasuttaṃ dasamaṃ niṭṭhitaṃ. 死ぬ前に・スッタ集 10番目 終わり
10. 死ぬ前のスッタ集 終わり