第4章 8つのこと:13.まとめ(大)907〜913

13. Mahābyūhasuttaṃ まとめ(大)②

SN-4-13-907

Tamūpanissāya jigucchitaṃ vā, 
懺悔によって 逃避 あるいは
athavāpi diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
あるいはまた 見たこと または 聞いたこと 考えたこと または
Uddhaṃsarā suddhimanutthunanti, 
上に・声を 清浄を・嘆く
avītataṇhāse bhavābhavesu.
ない・離れる・渇望を 生存・非生存において

見たことや聞いたこと
あるいは考えたことで
懺悔したり逃避したり
声高に浄化を求めては嘆く。
これでは輪廻する生命への
渇望から解放されることがない。

解説

懺悔(ざんげ)」とは、自分の過去の行いを告白し、悔い改めることです。古代インドでは、月に4回(国によっては2回)「Uposatha(ウポーサタ)」の日があり、戒律が実践されているかを確認します。出家者は戒律を読み上げ、互いに誤りを指摘し合い、反省し懺悔します。

また、人は自分にとって何か不快な出来事に遭遇すると、思考によって現実から逃避します。しかし懺悔しても逃避しても、解放されるわけではないのです。懺悔は過去のことに意識を向け、逃避は今ではない別の地点に心が向いています。いずれも心は「今ここ」にはないのです。

過去や未来に心があるうちは、今ここを充実させることはできません。生きる喜びも悲しみもそれを感じることができるのは「」しかないからです。そのためには、思考ではなく感覚に意識を向けることが必要です。

見たり聞いたり考えたものによって、求めるエネルギー(渇望)が生まれ、それが輪廻転生の源なのです。

SN-4-13-908

Patthayamānassa hi jappitāni, 
熱望する者は 実に 望むもの
pavedhitaṃ vāpi pakappitesu;
怖れることが あるいは・また 計画した者には
Cutūpapāto idha yassa natthi, 
死と再生は ここに その人には ない・存在
sa kena vedheyya kuhiṃva jappe. 
彼は 何に 動揺する あるいは何を 望むだろう

何かを望む者には常に欲望があり
また、期待すれば怖れが生じる。
死も再生もない者が
何かを望んだり
怖れたりするだろうか。

解説

持っていないものに対して「欲しい」と望む人には、渇望が生じます。「欲しい」ものが得られないかもしれないと思うと「怖れ」が生じます。また、持っているものに対して「もっと欲しい」と望む人には、執着・不満が生じます。持っているものがなくなるかもしれないと思うと「怖れ」が生じます。ないものへの渇望と、あるものへの執着・不満です。

死も再生もない人」つまり、輪廻転生しない人には、「欲しい」と思う欲も「怖れ」もありません。当然、すでに得ている「浄化」を求めることもありません。「欲しい」と渇望する衝動のエネルギーが、生まれ変わる次の生命の源となり、人は輪廻転生します。懺悔する人は、懺悔によって浄化を求めている時点で、浄化を求める欲があるのです。

SN-4-13-909

Yamāhu dhammaṃ paramanti eke, 
それを・言う ダンマを 最高だと ある人は
tameva hīnanti panāhu aññe;
それを・実に 劣ったと また・言う 他の人々は
Sacco nu vādo katamo imesaṃ, 
真実は かどうか 説は どの これらの
sabbeva hīme kusalā vadānā.
すべて 実に・彼らは 巧みだと 言う

ある人が最高の教えだと言うものを
ある人は実にくだらないと言う。
いったいどれが本当の教えなのか
彼らはみんな自分が本物だと言う。

解説

教えに限らず、世の中には人の数だけ考え方や意見があります。民主主義では多数決で社会の指標を選択していきますが、だからといって正解があるわけではありません。より多くの人が納得できる考えに、調整した結果の妥協策に過ぎないのです。サンガ(出家修行者の集団)では全員一致で決定しますが、これも同じことです。話し合ってすり合わせたものです。

真理はただ1つです。クドクドと語って他者を説得するまでもなく、誰もが明らかにそうだと認める事実で、誰にとっても同じ事実です。例えば「人は死ぬ」といったことです。真理は論証する必要はなく、自分の身体で確認すればいいだけです。

SN-4-13-910

Sakañhi dhammaṃ paripuṇṇamāhu, 
自分の・実に ダンマを 完全・と言い
aññassa dhammaṃ pana hīnamāhu;
他人の ダンマは また 劣った・と言う
Evampi viggayha vivādayanti, 
このように 確執して 口論する
sakaṃ sakaṃ sammutimāhu saccaṃ.
各自の 自分の 一般的な意見を・言う 真実だと

自分の教えは完全だと言い
他人の教えはダメだと言う。
このように意見が対立して
それぞれの個人的な意見を
真理だと言う。

解説

909-910は「12.まとめ(小)の前半」と同じく「真理についての真理」が語られています。

SN-4-13-911

Parassa ce vambhayitena hīno, 
他の人の もし 軽蔑された 劣る
na koci dhammesu visesi assa;
ない いかなる ダンマによって 区別される者は ない・存在
Puthū hi aññassa vadanti dhammaṃ, 
個々の 実に 他人の 論ずる 教えを
nihīnato samhi daḷhaṃ vadānā.
劣っていると 自己において 強く 説きながら

もし他から非難されて
人として劣るなるならば
いかなる教えであっても
優れた人は存在しないことになる。
なぜなら、彼らは皆
他者の論ずる教えは間違っていると
強く自説を説くのだから。

解説

自説は正しい=他説は間違っている」ということです。10人がそれぞれ「自説が正しい」と言えば=10人がみな間違っている=劣った人だ、ということです。

SN-4-13-912

Saddhammapūjāpi nesaṃ tatheva, 
自分の・教えを・尊重する 彼らに そのような・のみ
yathā pasaṃsanti sakāyanāni;
合致する 賞賛される 自分の・目的を
Sabbeva vādā tathiyā bhaveyyuṃ, 
一切が 論説が 真実 成るだろう
suddhī hi nesaṃ paccattameva.
清浄 実に 彼らに 各自の・実に

自分の教えを尊重する者だけが
賞賛に値する道を行くのなら、
あらゆる論説が真理ということになる。
各々の教えによって浄化されるのだから

解説

「自分の教えを信じれば、浄化の道を歩むことになる」のであれば、あらゆる教えが真理であって、浄化される道だということになります。

SN-4-13-913

Na brāhmaṇassa paraneyyamatthi, 
ない バラモンには 他者に委ねること
dhammesu niccheyya samuggahītaṃ;
ダンマにおいて 考察しても とらわれる
Tasmā vivādāni upātivatto, 
それ故 論争を から脱却
na hi seṭṭhato passati dhammamaññaṃ.
ない 実に 優れた 見る ダンマを・他の

バラモンは他に依存することはない
教えについて考察しても捕われない。
ある教えを、実に優れていると
みなすこともしないので
論争から脱却している。

解説

ここでのバラモンとは、バラモン階級のことではなく、ブッダが認めるところの「真のバラモン=アラハン」のことです。

ブッダはある時、解脱目前の出家者たちを前に、サーリプッタに次のような質問をしました。「あなたは感覚を瞑想することで涅槃が得られる、という真実を信じますか?」。

これに対してサーリプッタは「感覚を瞑想することで涅槃が得られるのは事実だが、それはあなたを信じているからではありません。人から聞いた事実を信じるのは、自分で実現していない人だけです」と答えました。

サーリプッタは、感覚を瞑想することで涅槃が得られる真実を受け入れていますが、それはブッダが言ったからでも、他の誰かが言ったからでもなく、自分の個人的な体験で確認した事実だからです。