第4章 8つのこと:13.まとめ(大)914〜920

13. Mahābyūhasuttaṃ まとめ(大)③

SN-4-13-914

Jānāmi passāmi tatheva etaṃ, 
私は知っている 私は見た そのような・のみ これを
diṭṭhiyā eke paccenti suddhiṃ;
意見 1つの 信じる・彼らが 清浄だと
Addakkhi ce kiñhi tumassa tena, 
彼らが見たなら もし 何で 自我 それによって
atisitvā aññena vadanti suddhiṃ.
外れて 他者に 彼らは説く 浄化を

私は知っている
私は見た、と言うが
彼らが信じる考え方で
浄化されるのなら
仮に彼らが何かを見たとして
他者に浄化を説くだけで
どうして自分が浄化されるだろう。

解説

「私は知っている、私は見た」ということは、その対象=真実は、自分の外側にあるという考えです。自分の内側を知らずに、外側を知ったところで、心は浄化されません。どんなに立派な教えを聞いたり瞑想法を学んだり心の仕組みを頭で理解しても、自分の心の汚れは、自分で汚れに気づいて、自分で消さない限り、決して消えません。

ブッダがここで言いたかったのは、自力的修行者でありなさい、ということです。しかしながら後の世では「他力的修行者」へと変化してしまいました。

SN-4-13-915

Passaṃ naro dakkhati nāmarūpaṃ, 
見ている 人は 見るだろう 名前と形を
disvāna vā ñassati tānimeva;
見ること あるいは 彼は知るだろう そのように
Kāmaṃ bahuṃ passatu appakaṃ vā, 
欲のままに 多くを 見なさい 少なく あるいは
na hi tena suddhiṃ kusalā vadanti.
ない 実に それによって 清浄と 賢者は 説く

見ている人は
名前と形に意識を向けて
見るだろうから
見えたものをそのように
理解するだろう。
大きなことでも小さなことでも
好きなように見なさい。
賢者は、何かを見ることで
浄化されるとは決して言わない。

解説

passaṃpassati(見る)の現在分詞、dakkhati = dassati(見る)の仮定形、disvāna = dassati の動名詞で、どちらも見るという意味です。「見る」は、英語では seewatchlookview などあります。see は目に入る対象を無意識に見ることです。watch は変化している対象を観察すること。look はある1点を意識的に見ること。view はある対象を興味を持って見ることです。ここでは、passati = see、dassati = viewと解釈しました。

SN-4-13-916

Nivissavādī na hi subbināyo, 
独断論者は ない 実に 容易に離れる
pakappitaṃ diṭṭhi purekkharāno;
計らった 意見 尊重するので
Yaṃ nissito tattha subhaṃ vadāno, 
何事も 頼る そこに 清浄の 説くのは
suddhiṃvado tattha tathaddasā so.
清浄説者は そこに それを見た 彼は

独断的な人は
偏った意見を尊重するので
なかなかそこから抜け出せない。
何事もそこに依って浄化を説くのは
その人にとってはそのように
見えているからだ。

解説

Nivissavādin独断的。いついかなる条件下でもある考えに固執して、新しい経験に基づく再検討などを欠いた、硬直した思考態度です。原理・原則を重視しすぎて、応用が効かない考え方です。

固定観念や先入観など、自分の考えに固執している人は、自分は正しい、相手は間違っているという態度です。他者の視点の1つの考えを、冷静に客観的に検討できていない状態です。

このスッタの場合では、その人の説く教えの範囲を超えて理解が及ぶことはないのですから、この広い宇宙の中で、実に狭い自分だけの考えの範囲しか経験できないということです。自分自身が成長するためには、凝り固まった考えを捨て、新しい考えを取り入れることが必要です。

新しい考え方は、自分自身から湧き出てはきません。私たちが行うすべての経験は、他からの影響であり、元々は他から学んだことだからです。歴史的な発明は常に、それまで正しいとされてきた考えを根本から変えるものです。

SN-4-13-917

Na brāhmaṇo kappamupeti saṅkhā, 
ない バラモンは 認識に近づく 思念
na diṭṭhisārī napi ñāṇabandhu; 
ない 意見・追う人 ない・また 智慧・親族
Ñatvā ca so sammutiyo puthujjā, 
知っていること また 彼は 一般論を 世俗の
upekkhatī uggahaṇanti maññe.
無関心である 学んでいる 他の人々は

バラモンは想像で判断したり
考えにとらわれたり
知識に頼ることもない。
他の人々が学んでいる
世俗の一般論を知った上で
心にとめない。

解説

バラモン=アラハン(覚醒者・解脱者)のことです。あらゆる事象がそもそもが曖昧なのですから、時空を超えて俯瞰してみれば、どんな立派な考えも一時のたわごとに過ぎません。社会の中で生きていく上で、一般的なルールは大切にすべきですが、だからといってそれにがんじがらめに囚われる必要はないのです。

SN-4-13-918

Vissajja ganthāni munīdha loke, 
一切捨て 縛りを 覚醒者は この世で
vivādajātesu na vaggasārī;
論争・発生する ない 群れに入り
Santo asantesu upekkhako so, 
落ち着いた ない寂静の人の中で 平静な心で 彼は
anuggaho uggahaṇanti maññe.
ない・取得 取得しているが 他の人々は

覚醒者はこの世の
しがらみを一切捨てて
人が言い争っても
どちらかにつくことはない。
騒々しい人々の間でも
落ち着いた平静な心で
他の人々が何かを得ていても
欲しいものはない。

解説

何があっても動じない心「upekkhako(ウペッカーコ)平静な心・平常心」が大切です。精神が安定していると物事に不用意に動じることがなくなり、冷静に対応できます。 また、感情のコントロールがしやすくなり、人間関係も円滑になります。

騒々しい人々とは、何か起こる度に不安になって騒ぐ人のことです。不安は「大切なものを失う怖れ」から生じます。健康や収入、家や家族を失う怖れから、不安が生じて、人は落ち着きがなくなるのです。不安=怖れはコントロールが難しい感情で、不安に心が支配されると、「目の前の心配事」しか見えなくなり、冷静な対応ができなくなります。

SN-4-13-919

Pubbāsave hitvā nave akubbaṃ, 
過去の・汚れを 捨てて 新しいものを ない・作る
na chandagū nopi nivissavādī;
ない 欲に・向かう ない・また 独断論者は
Sa vippamutto diṭṭhigatehi dhīro, 
彼は 解放され 見解から・間違った 賢明で
na limpati loke anattagarahī.
ない けがされ この世で ない・自分を・責める

過去の煩いを捨て
新たに煩いをつくらず
欲を捨てて
固執して主張することもない。
間違った考えにとらわれず賢明で
自分を責めることもなく
世間で汚されることはない。

解説

過去の悩み・苦しみを捨て、新たに悩み・苦しみを作らず、欲を捨てて、固執して主張することもない。間違った考えにとらわれず賢明で、自分を責めて後悔しない。そんな人は世間から汚されることはない、という意味です。過去の汚れ煩い悩み・苦しみ=過去の喜怒哀楽です。

自分を責めること=後悔(kukkucca クックッチャ)です。後悔とは、決定の結果が好ましくなかったため、過去に別の決定をしたことを願う感情で、 自己嫌悪を伴います。後悔をしている間は、やる気がなくなり、心と身体の活動が止まります。詳細はこちら

SN-4-13-920

Sa sabbadhammesu visenibhūto, 
彼は 一切のダンマにおいて 敵対しない
yaṃ kiñci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā;
どんなこと 何でも 意見は あるいは 知識 想像 あるいは
Sa pannabhāro muni vippamutto, 
彼は 荷をおろした人 覚醒者 解放された人
na kappiyo nūparato na patthiyoti.
ない 劫(輪廻)は ない・死 ない 求めること

彼はどんな意見、知識、
思想を見聞きしても
あらゆるダンマにおいて敵対しない。
重荷を下ろして解放された
覚醒者は何も求めない、
死なないし、輪廻はない。

解説

あらゆるダンマ=あらゆる教え・教義、この世のすべての事象、すべての真理です。

Mahābyūhasuttaṃ terasamaṃ niṭṭhitaṃ.
大きな・まとめ・スッタ集 13番目 終わり

13. まとめ(大)終わり