6. Sabhiyasuttaṃ サビヤのスッタ集 ③
これまでサビヤは3回質問し、12の答えをブッダから得ました。質問が続きます。
SN-3-6-533
"Kiṃ pattinamāhu vedaguṃ, 何を 得た・言う ヴェーダグーと (iti sabhiyo) と サビヤは Anuviditaṃ kena kathañca vīriyavāti; 随知者は 何 どうして・また 精進する人・と Ājāniyo kinti nāma hoti, よい性質の人 どうして 名前 なる Puṭṭho me bhagavā byākarohi". 尋ねます 私に 世尊よ 答えてください
サビヤ:
聖なる知識の達人とは
何を得た人ですか?
随知者とは?
精進する人とは?
どうすれば人格者と言えますか?
世尊よ、お尋ねします。
私に答えてください。
解説
4回目の質問は、Vedagū(ヴェーダグー)=ヴェーダ(聖なる知識)に通じた人、随知者、精進する人、人格者についてです。
SN-3-6-534
"Vedāni viceyya kevalāni, ヴェーダを 探索して 全部 (sabhiyāti bhagavā) サビヤよ・と ブッダは Samaṇānaṃ yānidhatthi (yānipatthi) brāhmaṇānaṃ; 沙門たちの その・もの バラモンたちの Sabbavedanāsu vītarāgo, すべての・感受において 離れ・欲を Sabbaṃ vedamaticca vedagū so. すべてを ヴェーダを極めて ヴェーダグー 彼は
ブッダ:
サビヤよ
聖なる知識の達人とは、
バラモンたちの知識も
沙門たちの知識も
聖なる知識をすべて探索した人。
すべての聖なる知識を極めて
すべての感覚に関して
欲を離れた人です。
解説
Vedagū(ヴェーダグー)とは、この当時には、バラモンの教えであるヴェーダ(聖なる知識)に通じた人のことを指したようです。しかしブッダは、バラモンの教えに限らず、あらゆる聖なる知識=すべての真理を知った人こそが、本当のヴェーダグーである、と言っているのだと思います。
SN-3-6-535
"Anuvicca papañcanāmarūpaṃ, 隨知して 捏造・名前・色を ajjhattaṃ bahiddhā ca rogamūlaṃ; 内に 外に また 病の・根を Sabbarogamūlabandhanā pamutto, すべて・病・根・束縛を 脱した人 anuvidito tādi pavuccate tathattā. 随知者は そのような人 言われる そういう状態
随知者とは、
心の中にあるいは外に
病の根源となる
捏造する概念に気づき続けて
すべての病の根源である
心の縛りを脱した人です。
解説
Papañcanāmarūpa(捏造・名前・色を)が、このスッタのキーワードです。私たちが見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりするものは全て、宇宙の事実ではなく、私たちの周囲だけで共有できる概念に過ぎません。
私たちは6つの感覚器官(目耳鼻舌体心)を通して感受した情報を、瞬時に過去の経験と照らし合わせて各自が概念を構築して、対象として認識します。このとき人は、自分に都合よく概念を捏造する癖があります。
人は自分が築き上げてきたイメージ(世界観・価値観)から対象が一脱しないように、感受した情報の一部だけを抜き出したり、都合の悪い情報を無視したりします。外部からの入力(知覚)を内的基準と比較し、その差異(エラー信号)をなくすように、出力(行動)するシステムになっています。これが「papañca(パパンチャ)捏造」です。
鳥や虫はリンゴを見て、「リンゴだ」とは認識しません。私たちが「リンゴ」という名前を、あの色形の対象に結びつけて、共通認識として活用しているだけです。「ポム」と言われてもリンゴの色形は浮かびませんよね? しかしフランス語圏の人であれば、「Pomme(ポム)=リンゴ」の色形が浮かびます。それと同じです。
歳を取れば取るほど(経験が増えれば増えるほど)、この捏造は強くなります。気づいて意識的に手放す人もいますが、がんじがらめに縛られて、身動きできなくなる人の方が多いかもしれません。この捏造が問題の元=「病の根(rogamūla)」です。ブッダは「人間の苦しみの原因は、心の認識の問題」だと発見したのです。
SN-3-6-536
"Virato idha sabbapāpakehi, 慎む ここに すべて・悪を nirayadukkhaṃ aticca vīriyavā so; 地獄・苦しみを 超えて 精進 彼は So vīriyavā padhānavā, 彼は 精進 努力 dhīro tādi pavuccate tathattā. 堅実な人は そのような人 言われる そういう状態
精進する人とは、
この世のあらゆる悪を慎み
地獄の苦しみを超えて
努力して真摯に励む
堅実な人です。
解説
「精進します」とは、「一つのことに集中して励むこと、懸命に努力する」という意味です。単に努力する、頑張るのではなく、ひたむきな努力を表す言葉です。ビジネスシーンにおいては目上の人に対して、やる気をアピールしつつ、謙虚さも表現したい時に用いる言葉ですが、本来は、ひたすら仏道修行に努め、励むことです。
SN-3-6-537
"Yassassu lunāni bandhanāni, その人において 断ち切り 束縛を ajjhattaṃ bahiddhā ca saṅgamūlaṃ; 内に 外に また 執着の・根を Sabbasaṅgamūlabandhanā pamutto, すべて・執着の・根・束縛 脱した人は ājāniyo tādi pavuccate tathattā"ti. よい性質は そのような人 言われる そういう状態 と
人格者とは、
自分の内にも外にも
すべての執着の根を
束縛を断ち切った人
執着の根となる
一切の束縛がなくなった人です。
解説
「束縛がない状態」とは何でしょう? 心が解放されて「自由」な状態ですが、「したい放題なんでもできる状態」ではありません。したい放題にするということは、欲の向くまま、勝手気ままに動くということで、これでは欲の衝動に従う奴隷です。自由ではなく、内的に束縛されている状態です。本当に自由な状態は、「心が自分の意思で制御できている状態」です。欲望や衝動をコントロールできてこそ、本当に自由な人間です。
では「外的な束縛」とは何でしょう? 身体的な拘束は暴力ですが、精神的な束縛について考えてみます。私たちは他人からあれこれ指図されたり、拘束されたりすると不快に感じて、「他から束縛されている、他者が自分をコントロールしようとしている」と判断して反発します。強く主張してくる人、社会の常識、自分をとりまく環境、人間関係…そういった自分を束縛するものすべてから逃れて「自由になりたい!」と思います。
しかし、それを束縛だと判断しているのは自分自身です。他者の行動や言葉、考え方に、縛り付けて囚われているのは、自分の選択なのです。その選択は実は、外からの束縛を理由にして、失敗したり失望しないように自分を守るためであったり、なし得ない理想を自分に納得させるためだったりするのです。外からの束縛は、他者に責任の一端を担わせる、他者への依存でもあるのです。
私たちは常に何かを欲する力はありますが、それを実行する力も同じくあるとは限りません。実行するためには、外部の力との関係が複雑になるからです。面倒くさいのです。「本音の自分」と「建前の自分」があり、どっちが楽かで判断しているのです。そしてそれを外的な束縛と責任転嫁してしまうのです。もちろん無意識(潜在意識)によってです。
他者が何をしようとも、何を言おうとも、何を考えていると察しようとも、本来それは他者の精神の範疇であって自分の精神の範疇ではありません。そこに自分の行動や言葉・考え方を添わせなければ、外的束縛も存在しません。
「自由」とは、「自らに由る(依る)」という意味です。自己の欲望や考えに囚われず、自らの意志を拠り所にする、ということです。私たちは、外的な原因でうまくいかないことがあると「もっと自由ならいいのに」と外に自由を求めがちですが、「自由」は外の世界が与える何かではありません。
「社会や他者に望む自由」は決して手に入りません。自分の一存だけでは決まらないからです。叶うはずがない望みが叶わないことに対して「社会が悪い」「認めてくれない」と不平不満を募らせて、それぞれの立場で「自由」を求めると、対立や断絶が起きます。自分以外から「与えられる自由」を求めるのではなく、自分で自分に自由を与えれば、内側からも外側からも解放されます。これが本当の自由です。
散文
Atha kho sabhiyo paribbājako…pe… そこで 時に サビヤは 遍歴行者の …略… bhagavantaṃ uttariṃ pañhaṃ apucchi – 世尊に さらに 質問を 尋ねた
遍歴行者のサビヤは、…中略…
世尊 にさらに質問しました。
解説
質問はまだ続きます。次の5回目が最後になります。
SN-3-6-538
"Kiṃ pattinamāhu sottiyaṃ, 何を 得た・言う 聞解者と (iti sabhiyo) と サビヤは Ariyaṃ kena kathañca caraṇavāti; 聖なる人は 何 どうして・また 徳行ある・と Paribbājako kinti nāma hoti, 遍歴者は どうして 名前 なる Puṭṭho me bhagavā byākarohi". 尋ねます 私に 世尊よ 答えてください
サビヤ:
何を得た人を
聞解者と言うのですか?
聖なる人とは?
善行者とは?
どうすれば遍歴者という
名前になるのですか?
世尊よ、お尋ねします。
私に答えてください。
解説
最後の質問は、聞解者、聖なる人、善行者、遍歴者についてです。遍歴者はサビヤ自身のことでもあります。
SN-3-6-539
"Sutvā sabbadhammaṃ abhiññāya loke, 聞いた すべて・ダンマを よく知り 世界を (sabhiyāti bhagavā) サビヤよ とブッダ Sāvajjānavajjaṃ yadatthi kiñci; 有罪の・無罪の あるもの 何でも Abhibhuṃ akathaṃkathiṃ vimuttaṃ, 征服 ない・疑惑の 脱した者 Anighaṃ sabbadhimāhu sottiyoti. 無煩悩 どこでも・言う 聞解者・と
ブッダ:
聞解者とは、
この世で非難されるものであれ
非難されないものであれ
あらゆるダンマを聞いて
よく理解した人
あらゆる点で煩悩が消えて
疑いがなくなり
解放されて克服した人です。
解説
Sottiya(聞解者)とは、聞いたことについて理解した人、聞いて疑いを解いた人、聞いて悟った人です。私たちは本来「聞いて欲しい」生き物ですが、他者の話は聞きたがらないものです。「傾聴力」という言葉が流行りましたが、何事もまずは聞くことからはじまります。相手の言葉に耳を傾けていたとしても、ただ聞くだけで相手の真意まで汲み取れなければ、傾聴力が高いとはいえません。
SN-3-6-540
"Chetvā āsavāni ālayāni, 断ち切った 煩悩を 愛着を vidvā so na upeti gabbhaseyyaṃ; 知る 彼は ない 至る 母胎に Saññaṃ tividhaṃ panujja paṅkaṃ, 想念を 3種の 除く 泥を kappaṃ neti tamāhu ariyoti. 長い間 導く 彼を・言う 聖なる人・と
聖なる人とは、
愛着と煩悩を断ち切ると
母胎に誕生することは
ないことを理解した人。
3種の想念の汚泥を除いて
悟りの道に入った人です。
解説
「3種類の想念の汚泥」とは何でしょう? 悟りの段階は4段階あり、その最初の段階であるソータパンナになると、「聖なる道に入った人=ariya」と呼ばれるようになります。ここではその意味で、上述の聖者と区別しているのではないかと考えました。
ソータパンナ(涅槃を1回体験)になると、10の束縛のうち、3つの束縛が消えます。この3つの束縛が「3種の想念の汚泥」ではないかと解釈しました。このスッタの一般的な解釈とは、かなり違っていますが、ピンときたので、当サイトではそのように翻訳しました。その3つは以下の通りです。
- 自我の意識:私という実感
- 疑い:悟りへの道を疑うこと
- こだわり:こうするのが正しい、こうでなくてはいけないという自分への縛り
10の束縛の詳細はこちら。
SN-3-6-541
"Yo idha caraṇesu pattipatto, 人は この世で 善行について 徳を得た kusalo sabbadā ājānāti dhammaṃ; 巧みで 常に よく知り ダンマを Sabbattha na sajjati vimuttacitto, どこでも ない 執着する 解放・心 paṭighā yassa na santi caraṇavā so. 反発 彼には ない 存在 善行の人 彼は
善行者とは、
この世で善行によって
徳を得た人で
常に真理をよく理解する有能な人
執着がなく解放された心で
どんな場合でも反発しない人です。
解説
私たちは反応することで生きています。身体には6つの感覚器官があり、外から刺激を感受すると、3パターンの感覚(感情)が生じます。「受け入れる(好き)、受け入れない(嫌い)、どちらでもない」の3つです。あれこれ複雑な感覚を感じているようでも、結局、好きか嫌いかなのです。
理性のある人=社会で他者の共感を得やすい人=信頼される人は、この自分の好き嫌いを客観的にコントロールできる人です。しかし完璧にできる人はいません。完璧にできるようになるとアラハンの完成です。どんなにすごい人でも、博士でも大統領でも完璧どころではありません。
例えば、会社では人望があり信頼されているCEOでも、家庭では息子に反抗されて怒り狂う父親かもしれません。人にはそれぞれ、配偶者としての顔、親の前での子供としての顔、兄弟の前での顔、友達としての顔、地域の集まりでの顔などなど、同一人物のつもりでも、実際には接触する人の数だけ違った印象の私像があるのです。
そしてさらに自分自身にも、こう思われたいという私像があります。本当の私って、いったいどこにいるのでしょうね。
SN-3-6-542
"Dukkhavepakkaṃ yadatthi kammaṃ, 苦しみ・果報 の時に・ある カンマを uddhamadho tiriyaṃ vāpi majjhe; 上に・下に 横に また・も 中間に Paribbājayitvā pariññacārī, 完全に・捨てる人・また 知って・行い māyaṃ mānamathopi lobhakodhaṃ; 欺瞞を 慢心を・また・も 欲・憤怒を Pariyantamakāsi nāmarūpaṃ, 終わりにした 名前と色を taṃ paribbājakamāhu pattipatta"nti. 彼を 遍歴者・言う 得るを得た・と
遍歴者とは、
苦しい報いがある行為は
優っていても劣っていても
あるいは同等でも中立を保ち
欲や怒り、欺きや自惚れも
完全に捨てて
自覚して行動する人
固定概念にとらわれず
徳を得た人です。
解説
概念=色形と名前を結びつけたものです。私たちが生まれ出た時には、何も知らなかったのに、生きていく中で「〇〇ちゃん」と呼ばれて、〇〇=この肉体、「お靴を履きましょう」と言われて、お靴=この色形、と概念が出来上がっていきます。50年も生きれば、それはもう立派で頑なな概念が出来上がるはずです。
しかしこれはそもそも、その共同体でしか通用しない概念です。他国に行けば、〇〇ちゃんもお靴もすぐには理解されません。まして昆虫や動物には一生通じません。宇宙的に見れば、非常に狭い範囲でだけ通じる共通概念です。
この共通概念を利用して、他者とコミュニケーションして理解を深め、共に協力する分には何の問題もありません。ところが「自分の概念=みんなの共通概念」と勘違いすることから、「なんでわかってくれないの? 常識のない奴だ」と間違いが始まるのです。概念そのものが悪いのではなく、勘違い=無知が問題なのです。
散文
Atha kho sabhiyo paribbājako bhagavato そこで 時に サビヤは 遍歴行者の 世尊が bhāsitaṃ abhinanditvā anumoditvā 語る 対して・喜び・また 随・歓喜した attamano pamudito udaggo pītisomanassajāto 敵う・心に 嬉しい 気持ちがあがり 喜悦・生まれ uṭṭhāyāsanā ekaṃsaṃ uttarāsaṅgaṃ karitvā 立ち上がり 肩に 上衣を 為して yena bhagavā tenañjaliṃ paṇāmetvā そこから 世尊に それ故・輝く 差し出し bhagavantaṃ sammukhā sāruppāhi gāthāhi abhitthavi – 世尊に・向かって 対面して 適切な 詩句で 賞賛した
こうして遍歴者のサビヤは
世尊が語った言葉に喜び、
満足して感動し、心が躍り、感激しました。
上衣を肩にかけて立ち上がり
世尊に対して合掌して
ふさわしい詩で賞賛しました。
解説
サビヤ はブッダの解答に満足して、このあと10のスッタでブッダを賞賛します。=サビヤの質問、ついに終了です。5回質問して、5×4=20の答えを得ました。