9. Vāseṭṭhasuttaṃ ヴァーセッタ③
ブッダは「バラモンとは無所有で無執着の人」と宣言しました。ここからは、その具体例を27のスッタでブッダが説明してくれます。
SN-3-9-626
"Sabbasaṃyojanaṃ chetvā, 全ての・束縛を 切断 so ve na paritassati; 人は 実に ない 怖れ Saṅgātigaṃ visaṃyuttaṃ, 執着・超えた 離・束縛を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
すべてのしがらみを
断ち切った人に怖れはない。
執着を超えて
束縛を手放した人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
しがらみ(柵)は、水流をせき止めるために川の中に杭を打ち並べ、木の枝や竹などを絡みつけたものです。「まとわりつくもの・妨げ・邪魔するもの・行動を躊躇させるもの」=Saṃyojana(束縛)としました。Paritassati:pari(完全に)tasa(震え・動揺)=怖れです。
SN-3-9-627
"Chetvā naddhiṃ varattañca, 切断 紐 縄・と sandānaṃ sahanukkamaṃ; 鎖を 共に・手綱を Ukkhittapalighaṃ buddhaṃ, 挙げる・かんぬき(障害)を 覚った tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
紐、縄、鎖でできた
手綱を断ち切り
五蓋を除いて目覚た人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
紐、縄、鎖の順に切断しにくくなります。紐(敵意・怒り)、縄(渇望)、鎖(束縛)という anukkama 手綱(握りしめているもの)を断ち切って、paligha かんぬき(障害=五蓋)を引き抜いた人は覚者=アラハンです。
SN-3-9-628
"Akkosaṃ vadhabandhañca, 侮辱を 殺害・拘束を・と aduṭṭho yo titikkhati; 無・悪意の 人は 耐える Khantībalaṃ balānīkaṃ, 忍耐力ある 強い・軍の tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
侮辱されても
殴られても拘束されても
悪意を抱かずに耐える
忍耐力のある強靭な人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
アラハンは、たとえ殺されかけても、「あぁ、これもまた自分がかつてしたことなのだ」と納得します。ブッダの二大弟子の1人、長老モッガラーナは、暴行されて瀕死となった時、サーリプッタから「なぜ神通力を使って逃げなかったのか」と問われて、「自分が過去世でした業の結果だから」と答えました。いやー、長老でもいろいろあるのですね。詳細は「ダンマパダ 10章:暴力139」をご覧ください。
SN-3-9-629
"Akkodhanaṃ vatavantaṃ, ない・憤怒 禁戒ある sīlavantaṃ anussadaṃ; 戒・守る 無・ 増勢 Dantaṃ antimasārīraṃ, 訓練された 最後・身体を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
怒りがなく戒を誓って
戒めを守り欲がなく
訓練された最後の肉体を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
解脱した人は、輪廻を脱しているので、死んでも生まれ変わることはありません。よって現世の身体が、最後の肉体になります。
SN-3-9-630
"Vāri pokkharapatteva, 水 蓮の・葉・のように āraggeriva sāsapo; 針の・先・のように 芥子粒 Yo na limpati kāmesu, 人は ない けがす 欲望によって tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
水を弾く蓮の葉のように
針の先のケシ粒のように
快楽によって心を汚さない人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
蓮の葉は水を弾く性質があるので、水は浸透することなくコロコロ転がります。また、先の尖った針の先に、芥子の種子を乗せようとしても、すぐに落ちてしまいます。そのように快楽を弾くように受け付けない、ということです。
SN-3-9-631
"Yo dukkhassa pajānāti, 人は 苦しみについて 知る idheva khayamattano; ここで・実に 滅尽・自己 Pannabhāraṃ visaṃyuttaṃ, おろした・重荷を 離・束縛を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
苦しみについて理解し
この世で確実に自分を滅尽し
しがらみを手放して
重荷をおろした人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
重荷ってなんでしょう? 学校や社会、人間関係、夢も理想も、家も財産も家族もすべてが、重荷になります。手に入らなければ不満で心に重くのしかかり、手に入れば失うことを怖れて重荷となります。重荷は、負担・つらいことです。「家族の世話になりたくない。迷惑かけたくない」と思うのも、自分が重荷になりたくないということです。
SN-3-9-632
"Gambhīrapaññaṃ medhāviṃ, 深い智慧の 賢者を maggāmaggassa kovidaṃ; 道・非道について 熟知する Uttamatthamanuppattaṃ, 最上の・利益を・得た tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
道と非道を熟知する
深い智慧の賢者
最高の目的を達した人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
Amagga 非道とは、どんな道でしょう? 極悪非道という言葉があるように、極道・邪道「道理に背き、人として道を外れること」だと思われていますが、「magga(マッガ)道(真理への道)」に対する「Amagga(アマッガ)非道=真理に至らない道」です。つまりは私たちが、人として当たり前だと思っている世俗の道=非道です。
SN-3-9-633
"Asaṃsaṭṭhaṃ gahaṭṭhehi, ない・親交 在家・さえ anāgārehi cūbhayaṃ; 出家・さえ と・両 Anokasārimappicchaṃ, 無・家・放浪者・小欲の tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
在家者とも
出家者とも関わらず
住む家もなく放浪し
足を知る人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
世俗の人々だけでなく、出家者とも距離をおくのです。スッタニパータ 第1章「3. 犀(サイ)ように独りで歩く」ですね。
SN-3-9-634
"Nidhāya daṇḍaṃ bhūtesu, 下に置く 棒を 生き物において tasesu thāvaresu ca; 怯える者を 動じない者を と Yo na hanti na ghāteti, 人は ない 殺す ない 殺させる tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
怯える者でも動じない者でも
生き物に対して武器を置いて
傷つけない傷つけさせない人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
自分が暴力を振るわないだけでなく、他の存在に暴力を振るわせもしない、ということです。
SN-3-9-635
"Aviruddhaṃ viruddhesu, 不・害意の 害意の人々において attadaṇḍesu nibbutaṃ; 取る・棒の人々において 涅槃に達する Sādānesu anādānaṃ, 執着ある人々において 無執着の tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
敵意のある人々の中で
敵意なく
暴力的な人々の中で
安穏であり
執着ある人々の中で
無執着の人を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-636
"Yassa rāgo ca doso ca, その人の 欲望 と 怒り と māno makkho ca pātito; 慢心 偽善 と 落ちた Sāsaporiva āraggā, 芥子粒・のように 針の・先 tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
針の先のケシ粒のように
欲望と怒り
傲慢と偽善が落ちた人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
欲も怒りも慢心も偽善も、針の先のケシ粒のように、留めようと思っても落ちるしかない状態です。つまり頑張らなくても、自然に落ちるということだと思います。
SN-3-9-637
"Akakkasaṃ viññāpaniṃ, ない・粗暴 明瞭な伝達 giraṃ saccamudīraye; 音声 真実・述べる Yāya nābhisaje kañci, 人を ない・不機嫌にさせる 誰も tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
キツイ言い方ではなく
ハッキリと伝わる声で
真実を語り
誰も不快にしない人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
giraは「音声」です。改めて目で見る文字と耳で聞く声による伝達の違いを感じました。人間が発する音としての言葉には、内在する力があるようです。確かに、緊張している人の声は震え、自信に溢れている人の声は堂々としています。100人いれば100人の言葉になり、そこから受ける印象はさまざまだと思います。
SN-3-9-638
"Yodha dīghaṃ va rassaṃ vā, 人は・この 長い 或は 短い 或は aṇuṃ thūlaṃ subhāsubhaṃ; 小さい 大きい 浄・不浄 Loke adinnaṃ nādiyati, 世界で 不与の ない・取る tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
長くても短かくても
小さくても大きくても
清浄でも不浄でも
この世で与えられていないものを
取らない人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
与えられていないものを取ることは、五戒の1つである「盗み」です。強盗や強奪はもちろんですが、無駄話での時間泥棒や、割り込みも与えられていないものを取る行為です。
SN-3-9-639
"Āsā yassa na vijjanti, 希望 その人には ない 見出す asmiṃ loke paramhi ca; この 世界で あちらで そして Nirāsāsaṃ visaṃyuttaṃ, ない・希望が 離れ・結合を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
現世でも来世にも
望みがなく
望みもこだわりもない人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
これはある意味「絶望している」状態です。絶望とは「人間終わった=大失敗した」と私たちは考えます。手の打ちようがなく夢も望みもすべて消えて、 まったく期待が持てなくなる状態ですが、これは夢にも希望にも捉われなくなり、解放された状態です。「人間終わった=解脱した」でもあるのです。
絶望から大成功に転じたような人は大勢います。絶望して諦め、自分に見切りを付けて捨て、自己から解放されて脱皮したことで、ステップアップできたのではないでしょうか。逆に、絶望して後悔し続け、嘆き続ける人もやはり大勢いますが、その人たちは脱皮できず、悩み苦しんでいますよね。同じことだと思います。
SN-3-9-640
"Yassālayā na vijjanti, その人には・執着 ない 見出す aññāya akathaṃkathī; 了知して ない・疑うことが Amatogadhamanuppattaṃ, 不死に・潜入・得た tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
その人には執着がなくなり
完全に理解しているので
疑うこともない
不死の涅槃に到達した人を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-641
"Yodha puññañca pāpañca, この世で 善と 悪と ubho saṅgamupaccagā; 両方の 執着・過ぎ去った Asokaṃ virajaṃ suddhaṃ, ない・悲しみ 離・塵で 純粋で tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
この世において善と悪と
両方の執着がなくなり
嘆くことがなくなり
穢れから解放された純粋な人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
善とか悪とか決めることが、そもそも判断です。善も悪も、状況やタイミングによって変化します。絶対的な善も悪もないのです。何かを「善」とした瞬間にその対極である「悪」が比較の対象として出現します。アラハンは比較も判断もしないので、善も悪も分け隔てることはなく、そのどちらにもこだわりません。だから反意を感じる対象もないのです。
その状態で、ヴィパッサナー瞑想による観察を続ければ、新しい穢れのエネルギーを外から取り入れることがないので、心の奥深くに蓄積した古い穢れ(Saṅkhāra)がエネルギーとして消化され、やがて穢れが尽きれば心は純粋になります。
SN-3-9-642
"Candaṃva vimalaṃ suddhaṃ, 月・のように 離・垢で 純粋で vippasannamanāvilaṃ; 清く明るい・心で Nandībhavaparikkhīṇaṃ, 喜び・存在・滅尽した tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
月のように無垢で純粋で
清く明るい心で
喜びを滅尽した存在を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-643
"Yomaṃ palipathaṃ duggaṃ, 人はこの 泥沼を 難・行きを saṃsāraṃ mohamaccagā; 輪廻を 無知を・超えて Tiṇṇo pāraṅgato jhāyī, 渡った人 他岸に・行った人 瞑想者 anejo akathaṃkathī; 無・欲望 無・疑うこと Anupādāya nibbuto, 無執着 涅槃到達者 tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
この行き難い泥沼を通過し
輪廻を、無知を超えて渡った人
彼岸に到達した瞑想者
欲望もなくなり疑いもなくなり
何ものにも囚われることがない
涅槃に至った人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
Jhāyī は瞑想者ですが、jhāには、瞑想(to meditate)という意味の他に、思いに沈む(to muse)、燃焼(to burn)という意味もあります。このことからJhāyī はヴィパッサナー瞑想を示唆していて、「洞察瞑想によって心の穢れを燃焼する」と解釈できるのではないでしょうか。
SN-3-9-644
"Yodha kāme pahantvāna, 人を・ここで 快楽を 捨てて anāgāro paribbaje; 出家者は 遍歴する Kāmabhavaparikkhīṇaṃ, 快楽・存在・滅尽した tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
この世での快楽を捨てて
出家して遍歴する
楽しみを滅尽した存在を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-645
"Yodha taṇhaṃ pahantvāna, 人を・ここで 渇望を 捨てて anāgāro paribbaje; 出家者は 遍歴する Taṇhābhavaparikkhīṇaṃ, 渇望・存在・滅尽した tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
この世での渇望を捨てて
出家して遍歴する
渇望を滅尽した存在を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-646
"Hitvā mānusakaṃ yogaṃ, 捨てて 人間の 縛りを dibbaṃ yogaṃ upaccagā; 天界の 縛りを 越えて行く Sabbayogavisaṃyuttaṃ, すべて・縛り・離・関係を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
人間的な絆を捨てて
神的な呪縛も越えて行く
あらゆる関係
縛りから離れた人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
人間関係・絆・呪縛、いずれにせよ自分のイメージが作り出した、心を縛る「結び」です。何かと何かを結び付けることで、縁が結ばれて関係性ができ、固定した概念となります。最初は緩い結び目でも、いつの間にか固い縛り目となり、自分でも気づかないうちに反射的にこだわるようになります。
SN-3-9-647
"Hitvā ratiñca aratiṃ, 捨てて 楽・と 不楽を sītibhūtaṃ nirūpadhiṃ; 穏やかで 無依存の Sabbalokābhibhuṃ vīraṃ, すべて・世界・征服した 英雄を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
楽しみも不満も離れて
穏やかで依存しない
すべての世界を征服した英雄を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
すべての世界とは、人間界を含む11の欲界(感覚のある存在領域)、16のルーパ・ブラフマー界、4のアルーパ・ブラフマー界、計31の存在領域だと思います。
SN-3-9-648
"Cutiṃ yo vedi sattānaṃ, 消えるを 人は 経験した 存在の upapattiñca sabbaso; 現れるを・そして すべて・それは Asattaṃ sugataṃ buddhaṃ, 無執着 善く行く 覚者を tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
存在の消滅と生起が
すべてに当てはまると
経験した人は
何ものにも執着しない
善行の覚者であり
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-649
"Yassa gatiṃ na jānanti, その人の 行方を ない 知る devā gandhabbamānusā; 神々も 音楽神・人間も Khīṇāsavaṃ arahantaṃ, 尽きた・煩悩が アラハンを tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
神々も音楽神も人間も
その人の行き先を知らない。
煩悩が尽きたアラハンを
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-650
"Yassa pure ca pacchā ca, その人の 前に も 後に も majjhe ca natthi kiñcanaṃ; 中間に も ない なにものか Akiñcanaṃ anādānaṃ, 無所有の 無執着の人 tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
過去にも未来にも
現在にも何もこだわらない
無所有で無執着の人を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-651
"Usabhaṃ pavaraṃ vīraṃ, 高貴な人 最上の人 英雄 mahesiṃ vijitāvinaṃ; 大仙人 征服者 Anejaṃ nhātakaṃ buddhaṃ, 不動者 浄行者 覚醒者 tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
高貴な人、最上の人
英雄、偉大な仙人、征服者
不動の人、浄化された人
覚醒した者を
私はバラモンと呼ぶ。
SN-3-9-652
"Pubbenivāsaṃ yo vedi, 前の・住処を 人は 知る saggāpāyañca passati; 天界・苦界・と 見る Atho jātikkhayaṃ patto, 時に 誕生・滅尽を 得た人 tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ. 彼を私は 呼ぶ バラモンと
過去世を知り
天界と悪趣を見て
再び生まれるのを止めた人を
私はバラモンと呼ぶ。
解説
このスッタでブッダの「私はバラモンと呼ぶ」シリーズは完了です。