生臭いもの ②
生き物を傷つける行為が生臭いことであり、生臭い肉や魚を食べることではない、とカッサパ・ブッダは言いました。生き物を傷つける行為とは、五戒で戒められた5つの行為で、これによって心が汚れて悪臭を放つということです。その続きです。
SN-2-2-249
"Ye pāpasīlā iṇaghātasūcakā, 彼らは 悪い・習慣の 負債を・破壊・中傷する vohārakūṭā idha pāṭirūpikā; 裁判 ここで 偽りの Narādhamā yedha karonti kibbisaṃ, 悪人 ここにおいて 為す 罪を esāmagandho na hi maṃsabhojanaṃ. これらが・生臭 ない 実に 肉を・食べること
たちが悪く、借金を返さない
中傷する、偽りの取引をする
偽善者、罪を犯すこの世の悪党。
これがまさに生臭いものであり
肉を食べることではない。
解説
たちが悪いの「たち」とは、性質のことです。「心の性質が悪い」ということで、心に不健全な精神作用が多い状態です。このことに気づいて、自分で意識すれば、改善できます。
SN-2-2-250
"Ye idha pāṇesu asaññatā janā, 彼らは この世で 生命に対して 無制御の 人々 paresamādāya vihesamuyyutā; 他から・奪い 困らせる・励む Dussīlaluddā pharusā anādarā, 破壊・無法の 粗暴で 無礼 esāmagandho na hi maṃsabhojanaṃ. これらが・生臭 ない 実に 肉を・食べること
この世の生き物に対して
乱暴で、他者から奪い
困らせることに懸命で
残酷で無法で粗暴で無礼な人々。
これがまさに生臭いものであり
肉を食べることではない。
SN-2-2-251
"Etesu giddhā viruddhātipātino, これらに対し 貪り 妨害・殺す人は niccuyyutā pecca tamaṃ vajanti ye; 常に・励む 死後 闇に 行く 彼らは Patanti sattā nirayaṃ avaṃsirā, 落ちる 生き物は ニラヤに 真っ逆さまに esāmagandho na hi maṃsabhojanaṃ. これらが・生臭 ない 実に 肉を・食べること
生命を貪り、殺し
害する者たちは
常に(悪事に)励み
死んだら闇に行く
真っ逆さまに地獄に落ちる存在。
これがまさに生臭いものであり
肉を食べることではない。
解説
生臭いものとは、肉や魚を食べることではなく、血なまぐさい行為のことでした。
SN-2-2-252
"Na macchamaṃsānamanāsakattaṃ, ない 魚と肉 ない・断食 na naggiyaṃ na muṇḍiyaṃ jaṭājallaṃ; ない 裸体 ない 剃髪 結髪・汚い Kharājināni nāggihuttassupasevanā, 粗い獣皮の衣 ない・火・供養・最上の・行事 ye vāpi loke amarā bahū tapā; 彼らは あるいは・また 世の中の 不死の 多くの 苦行 Mantāhutī yaññamutūpasevanā, マントラの・献供 供犠・季節・奉仕 sodhenti maccaṃ avitiṇṇakaṅkhaṃ. 浄化 人間を ない・超える・疑念を
魚や肉を食べなかったり
断食したり
裸行や剃髪、汚い結髪
粗い獣の皮衣や
火を崇めて拝む行事ではない
あるいは世の中によくある
不死のための苦行や
マントラを唱えたり
季節の供養奉仕することが
人間を浄化するとは
疑念を拭い去れない。
解説
ここで挙げられていることは、いわゆる苦行の数々です。ダンマパダ10章「罰」の141にも同じようなスッタがあり、ゴータマ・ブッダは「苦行では解脱できない」と言っています。「こういった苦行と同じく、肉や魚を食べないことで、解脱はできない」ということです。
SN-2-2-253
"Yo tesu gutto viditindriyo care, 人は 守る 見出し・感覚知覚能力 行く dhamme ṭhito ajjavamaddave rato; ダンマにおいて 堅く まっすぐで・柔和な 喜び Saṅgātigo sabbadukkhappahīno, 渇望を克服 一切の・苦を・捨てた人は na lippati diṭṭhasutesu dhīro’’. ない 汚される 見聞きしたことに 賢者は
6つの感覚器官を観察して
守り修行する人は
ダンマにおいて堅実で
正直で穏やかで喜びがある
渇望を克服した賢者は
あらゆる苦しみを捨て
見聞きしたことによって
心が汚されることはない。
解説
通説では、ここまでがカッサパ・ブッダの答えです。
SN-2-2-254
Iccetamatthaṃ bhagavā punappunaṃ, と・このような・道理を ブッダは 繰り返し akkhāsi naṃ vedayi mantapāragū; 告げた それを 感受した 聖典の・達人は Citrāhi gāthāhi munī pakāsayi, 種々の 偈によって 聖者は 明らかにした nirāmagandho asito durannayo. ない・生臭は ない・依存 従うのが難しい
このような道理を
ブッダは繰り返しました。
これを聞いてバラモンは、
何にも執着せず、追従し難く
生臭(穢れ)がない聖者が
様々な形で明確にしたことを
理解しました。
解説
このスッタと次のスッタは、このスッタ集の編纂者の言葉と思われます。ここで新たに登場した mantapāragū(ヴェーダ聖典の達人=バラモン)については、以下のような逸話があります。
ある村でゴータマ・ブッダ が説法をしたところ、その村の人々は、大変感動してブッダに従うようになったそうです。ところがある日、ゴータマ・ブッダと弟子たちがいつものようにその村に行くと、村人たちは、以前のような熱狂的な態度を見せません。
不思議に思ったバラモンが、村人に事情を聞きました。村人たちは、ブッダが「アーマガンダ(肉や魚)」を食べたかどうかを知りたがり、「ゴータマ・ブッダは、アーマガンダを食べることを禁じていない」と聞いて、大いに落胆したそうです。
このバラモンは、ゴータマ・ブッダから直接話を聞きたいと思い、ジェータ僧院(祇園精舎)を訪ねました。ゴータマ・ブッダは、「アーマガンダ」は魚でも肉でもなく、悪行のことであり、これを避けたい者は、あらゆる悪行を避けなければならないと答えました。
そして「この質問は、(自分の前のサンマーサンブッダである)カッサパ・ブッダが、ティッサという修行者に聞かれた質問と同じだ」として、上述のカッサパ・ブッダとティッサの会話を伝えたそうです。
この逸話から、「様々な形で明確にした」部分の解釈が2つできると思います。
①カッサパ・ブッダが245で「生臭いものとは、五戒を破るものだ」と説き、それを 246〜251 のスッタで、6回に言い換えています。これを様々な句で繰り返した、とする解釈。
② 歴代のブッダが、断つべき生臭いものは「心の穢れ」だと、様々な表現で繰り返してきたという解釈です。
どちらが正解ということではないと思うので、特定せずに「ブッダ」としました。また、252と253は、カッサパではなくゴータマ・ブッダの発言と考えることもできると思います。いずれにせよ、大切なことは誰が言ったかではなく、言っている内容が同一見解であり、真理(ダンマ)だということです。
SN-2-2-255
Sutvāna buddhassa subhāsitaṃ padaṃ, 聞いて ブッダによる 善く説かれた 句を nirāmagandhaṃ sabbadukkhappanūdanaṃ; ない・生臭 一切・苦を・除去 Nīcamano vandi tathāgatassa, 謙虚な心で 尊敬した タターガタを tattheva pabbajjamarocayitthāti. そこで・まさに 出家を・喜んだ・と
生臭(穢れ)がなく
すべての苦しみを取り除く
ブッダによる見事な言葉を聞いて
謙虚な心でタターガタに敬意を表し
その場で直ちに出家を願い出ました。
解説
ここでのブッダは歴代のブッダを、タターガタはゴータマ・ブッダを指しているのではないかと思います。
pabbajjā(出家)+arocayittha(喜びをもって)。ゴータマ・ブッダをジェータ僧院に訪ねたこのバラモンとその弟子たちは、ブッダに帰依して数日後にアラハンとなったそうです。
Āmagandhasuttaṃ dutiyaṃ niṭṭhitaṃ. 生臭いもの・スッタ集 2番目 終わり
2. 生臭いもののスッタ集 終わり
まとめ
このスッタ集は、歴代のブッダの言葉が記されている数少ない文章のひとつです。
ゴータマ・ブッダは、4人目のサンマー・サン・ブッダですが、サンマー・サン・ブッダの見解は、大昔からのものと同一見解であり、それがすべての賢者に受け入れられたことを明確にする、貴重なスッタ集だと思います。
ゴータマ・ブッダ自身は、「托鉢で得た食事は、すべて有り難く残さずに食べる=肉も魚も食べる。もし、自分の食事のために動物を殺そうとしていることがわかれば、それを止める」というスタンスだったそうです。「肉や魚は食べない」というのも、望み・欲であり、「与えられたものを拒絶、あるいは選り好み」するこだわりだからです。