7. Brāhmaṇadhammikasuttaṃ バラモンの教えのスッタ集 ④
欲に溺れ、渇望が増して堕落していくバラモンは、さらに王から財宝を引き出すために新しいマントラを作りました。いったいどんなマントラなのでしょうか?
SN-2-7-309
‘‘Yathā āpo ca pathavī ca, ように 水 と 大地 と hiraññaṃ dhanadhāniyaṃ; 金 財産・穀物 Evaṃ gāvo manussānaṃ, このように 牛たちは 人間の parikkhāro so hi pāṇinaṃ; 必需品 それは まさに 生命は Yajassu bahu te vittaṃ, 犠牲すべき 多くの あなたは 富を yajassu bahu te dhanaṃ. 犠牲すべき 多くの あなたは 財産を
水や大地、金や財産、
穀物のように
家畜の命は人間にとって
必要不可欠なものである。
あなたはたくさんの富を
生贄に捧げよ。
あなたはたくさんの財産を
生贄に捧げよ。
解説
王を唆(そそのか)し、自分たちの私服を肥やすために「水や大地、金や財産、穀物と同様に、家畜の命は人間の財産だから、多くの資源と富のために彼らの供養をしなさい」ということです。もはや嘘つき、詐欺師の域ですね。牛は友達であり、親や兄弟、親戚と同じように大切だと考えていた時代とは、大きく変わってしまいました。
SN-2-7-310
‘‘Tato ca rājā saññatto, その後 そして 王は 説得され brāhmaṇehi rathesabho; バラモンたち・然らば 車の・主は Nekā satasahassiyo, 多くの 何百・何千の gāvo yaññe aghātayi. 牛を 生贄に 殺した
こうして馬車の主である王は
バラモンたちに説得され
何百、何千の多く牛を
生贄のために殺した。
解説
ここで注意したい点は、バラモンたちは王を唆して大量の牛を殺させましたが、自分たちは決して手を下さなかったのです。不殺生の戒を破らないように、儀式だと言って王に直接殺させたのです。
SN-2-7-311
‘‘Na pādā na visāṇena, ない 足で ない 角で nāssu hiṃsanti kenaci; ない 傷つける 何かによって Gāvo eḷakasamānā, 牛は 山羊と・同じ soratā kumbhadūhanā; 温和な 瓶・搾乳 Tā visāṇe gahetvāna, 彼女たちの 角を 捕えて rājā satthena ghātayi. 王は 剣で 殺した
蹄(ひづめ)や角で
誰かを傷つけることはなく
牛は山羊のように温和で
瓶一杯の乳を与えてくれた。
王は牛の角を掴んで
剣で殺した。
解説
訳すのが辛すぎるスッタです。
SN-2-7-312
‘‘Tato devā pitaro ca, その後 神々は 祖神 と indo asurarakkhasā; インドラは 阿修羅・鬼 Adhammo iti pakkanduṃ, 非・法だ それを 叫んだ yaṃ satthaṃ nipatī gave. 時に 剣 下に・主の 牛に
牛に剣が振り下ろされた時
神々や祖神、インドラ、
阿修羅、鬼神は
それを「非法だ」と叫んだ。
解説
非法=「ダンマではない。真理ではない」ということです。酷過ぎますね。剣が振り下ろされる瞬間が感じられて、あまりの惨さに、もしかしてバラモンたちはみんなヴァサラに生まれ変わって結果を受け取っているんじゃないか、と思ってしまうスッタです。
SN-2-7-313
‘‘Tayo rogā pure āsuṃ, 3つの 病気 前に あった icchā anasanaṃ jarā; 欲 飢え 老い Pasūnañca samārambhā, 家畜の 殺害によって aṭṭhānavutimāgamuṃ. 8・90・現れた
それ以前は
欲望・飢え・老いの
3つの病いがあるだけだった。
しかし家畜の殺戮によって
98の病いが出現した。
解説
人々を悩み苦しめる病いは、それ以前は「欲望・飢え・老い」の3つだけでした。ここでいう病いとは、いわゆる西洋医学的な病気ではありません。人の心を蝕み苦しめる「病い」のことです。「癒し」の反対です。
人類は悪業を重ねることによって、多くの病いに苦しむことになります。病いには意味と役割があり、病いは、人間に改善すべきことを教えているそうです。
SN-2-7-314
‘‘Eso adhammo daṇḍānaṃ, これは 非・法な 暴力 okkanto purāṇo ahu; 入る 古代に 存在 Adūsikāyo haññanti, ない・汚れ 殺害 dhammā dhaṃsanti yājakā. ダンマから 脱落 献供者たちは
これは非法な暴力であり
それ以前にもあることだった。
罪のないものを殺害した司祭は
ダンマから離れて堕落した。
解説
堕天使みたいなものですね。人間が欲に負けて堕落して、真理から離れていく様子は、いつの世も変わりません。
SN-2-7-315
‘‘Evameso aṇudhammo, このように 微細な・法は porāṇo viññugarahito; 以前に 賢者・非難した Yattha edisakaṃ passati, 所で そんな 見出す yājakaṃ garahatī jano. 司祭者を 非難する 人々は
古代の賢者はこのような非法は
わずかであっても厳しく非難した。
司祭にそのような資質があると
人々はただちに非難した。
解説
これは私たちの社会でも同じことです。効率や便利さを優先して、昔ながらの伝統やしきたりが軽視され、高齢者や弱者が置き去りにされる社会において、それぞれの人はいい人なのに、なぜか組織の中では平気で不正もできてしまうものです。
SN-2-7-316
‘‘Evaṃ dhamme viyāpanne, このように ダンマが 失われた vibhinnā suddavessikā; 分散した 奴隷族・庶民族 Puthū vibhinnā khattiyā, 個々の 分散した 王族 patiṃ bhariyāvamaññatha. 夫を 妻・軽視した
このようにダンマが失われて
庶民族と奴隷族に分裂し
王族は互いに不仲になり
妻は夫を軽視するようになった。
解説
ブッダが批判したカーストの基礎となる排他的な分裂の始まりです。職業や血縁・地縁を基準に4ヴァルナ(4種姓)に分かれ、バラモン(司祭)を最上位に、2位がクシャトリヤ(王族)、3位がヴァイシャ(庶民族。農業や商業を営む)、最下位はシュードラ(奴隷族)となります。そしてカースト外のヴァサラとして先住民が排除されていきます。
それまでは調和をもって生きていた社会が、この4つのカテゴリーのどこに自分たちの共同体(ジャーティ)が入るかで、互いに主張し分断されていったようです。
私たち日本人の感覚では、「なぜ、王様より僧侶が上位?」と思ってしまいますが、インドでは、心の浄化がどこまでされているかが、人間の霊的なレベルを決める尺度となっている部分があるようです。欲に溺れたバラモンは、王族に財宝をお布施させたかったのですから、自分たちの方が霊的に高尚であるとしたのかもしれません。
4ヴァルナの順位は、下にいくほど、汚れを扱う職業についています。カースト外のヴァサラ(現・ダリット)に至っては、不可触民(汚れるから触れてはいけない浄性の低い民)とされ、死や殺生、排泄物に関わる職業を担っています。
ちなみに現在、日本人が改宗してヒンドゥー教徒となり、インドのカーストに入った場合、どんなに金持ちであってもシュードラ(奴隷族)です。そして次の生まれ変わりで上位に生まれ変わるよう、たくさんお布施をして徳を積むことを推奨されます。
SN-2-7-317
‘‘Khattiyā brahmabandhū ca, 王族たち バラモンの・縁者たち と ye caññe gottarakkhitā; 彼らは また・他の 種姓・守護された Jātivādaṃ niraṃkatvā, 生まれ・論を 放棄 kāmānaṃ vasamanvagu’’nti. 快楽に 権力に・従った・と
階級によって庇護された
王族やバラモンの血縁者たちは
ジャーティ論を放棄して
快楽と権力に従った。
とブッダは言いました。
解説
このスッタには、「Jātivādaṃ(ジャーティ論)が放棄され」と書かれています。「Jāti(ジャーティ)出自・生まれ)」とは、種族で区分された共同体の単位です。霊的成長の度合いによってグループ分けされていたようです。
ジャーティについては、ヴァルナ(カーストの原型となる宗教的身分制度)の枠組みがあって、後世それが細分化されたとする説や、ヴァルナの成立と平行して、ジャーティの細分化も進み、両者が合体したとする説、ヴァルナとジャーティは全く別とする説など、様々な解釈がありますが、このスッタを読む限り、ジャーティはヴァルナ以前からあり、好意的に受け止められていたように見受けられます。
ジャーティは血縁や地縁による共同体の区分に過ぎず、上下関係や敵対視する身分制度ではないようです。代々受け継ぐ世襲的な職業(家業)による区分で、その共同体内だけで婚姻関係を結ぶ内婚制です。このスッタ集の①にある292のスッタに、「バラモン が他の種族とは子を作らない」とあるのも、このジャーティによる内婚制を守っていたのだと思います。
元々、ジャーティによって、生まれながらに生業が決まっているということは、生きる上で安泰だったようです。バラモンによってジャーティがヴァルナとなる4区分の宗教的な身分制度に変化し、職業区分に基づく差別の要素が強くなっていったのかもしれません。
あとがき
Evaṃ vutte, このように 言われた時 te brāhmaṇamahāsālā bhagavantaṃ etadavocuṃ 彼は バラモンの・長老・裕福な 世尊に こう・言った – ‘‘abhikkantaṃ, bho gotama…pe. … すばらしい 友よ コータマ 省略 upāsake no bhavaṃ gotamo dhāretu ajjatagge pāṇupete saraṇaṃ gate’’ti. 在家信者 確かに 尊師に ゴータマ 保持者 今日から 終身 帰依する 行く と
このように言われると、バラモンの裕福な長老たちはブッダにこう言いました。
「すばらしい。友よ、ゴータマ。
省略(今、私たちは理解しました。覆れたものが再び現れるようです。あるいは、道に迷った人に道が示されたように。あるいは、暗闇にランプを灯し、目で形が見えるように。尊師は、様々な方法で教えを説いて下さいました)
今日から私たちは在家信徒として
ゴータマ尊師に帰依し、一生ついて参ります。
解説
省略部分には、カッコ内の決まり文句が入ります。
Brāhmaṇadhammikasuttaṃ sattamaṃ niṭṭhitaṃ. バラモンの・教え・スッタ集 7番目 終わり
7. バラモンの教えのスッタ集 終わり
まとめ
ゴータマ・ブッダ は王族の出身であり、クシャトリヤの階級でした。
育ての母であるマハー・パジャーパティーが「私も出家したい」と申し出た時に、「王室にいても、十分悟れますよ」と返答して出家に反対しています。裕福でも貧しくても、自分に与えられた物や場にこそ自分に必要な学びがあることに気づき、そこに満足して気づきの心を確立することが大切なのだと思いました。