9. Kiṃsīlasuttaṃ 戒めのスッタ集
Kiṃ(何?)sīla(戒め):「シーラ(戒め)」とは何なのかについてのスッタ集です。
戒律という言葉がありますが、sīla(シーラ)はその「戒」の部分にあたります。「律」はvinaya(ヴィナヤ)です。戒は、自発的に規則を守ろうとする心のはたらきで、律は、他からの働きかけによって守る規則です。
ダンマを学び、そこから利益を得るための正しい態度や行動について、ブッダが語ったスッタです。
SN-2-9-326
"Kiṃsīlo kiṃsamācāro, 何か・シーラは 何か・正しい行い kāni kammāni brūhayaṃ; 何? 行為を 増して Naro sammā niviṭṭhassa, 人は 正しく 安住するか uttamatthañca pāpuṇe’’. 最高の利益に 到達するか
戒めとは何か?
善行とは何か?
どんな行為をすることで
人は正しく確立され
最高の利益に至るのか?
解説
最高の利益とは、涅槃のことです。このスッタはブッダ の一番弟子であるサーリプッタ が、言うことを聞かず成果が思わしくない弟子を連れて、ブッダに尋ねた質問です。わざわざブッダ の元に連れていくくらいですから、サーリプッタ が預かったブッダ の息子ラーフラだったのかもしれません(根拠のない想像論ですが)。
SN-2-9-327
"Vuḍḍhāpacāyī anusūyako siyā, 長老を・敬う ない・嫉妬 あるように kālaññū cassa garūnaṃ dassanāya; 時を知り そして・彼に 尊重する 見るために Dhammiṃ kathaṃ erayitaṃ khaṇaññū, ダンマ 故に 説く 瞬時に suṇeyya sakkacca subhāsitāni. 聞く 尊敬して よく説かれた
目上の人を敬い
嫉妬しないように。
しかるべき時には
師を尊重して接し、
ダンマの教えが説かれる
機会を逃すことなく
尊敬の念をもって
熱心に聞きなさい。
解説
vuḍḍhaは、目上の人と訳しましたが、自分より歳が上の人だけでなく、年齢に関係なく自分より智慧のある人、自分より集中力などの技量のある人のことです。これは今世だけでなく、すでに過去生において多くの智慧や徳を積んだ人もいるからです。たとえ子供であっても、そうした目上の人に対して、嫉妬せずに敬いなさいという意味です。
SN-2-9-328
"Kālena gacche garūnaṃ sakāsaṃ, 適切な時に 行くように 師の 前に thambhaṃ niraṃkatvā nivātavutti; 頑固を 捨てて 従順な・態度で Atthaṃ dhammaṃ saṃyamaṃ brahmacariyaṃ, 善行 ダンマ 節制 禁欲生活 anussare ceva samācare ca. 思い出し と・あるいは 実行しよう と
時をわきまえて
師の前に行くように。
頑固さを捨てて謙虚になり
善い行い、ダンマ、節制、
貞節を忘れずに実践するように。
解説
師の側に行く際には、食事時や瞑想中、休憩中を避けなければいけません。通常、出家修行者は、時間が決められていて、その時間のみ質問ができます。質問するということは、答えてくれる人の時間を奪うことになります。
brahmacariyaṃ:brahma(清らかな)+cariya(生き方)。梵行(ぼんぎょう)。出家修行者が欲望を断つために貞操を守り、戒律に従って清らかな生活をすることです。
SN-2-9-329
"Dhammārāmo dhammarato, ダンマを・喜び ダンマを・楽しむ dhamme ṭhito dhammavinicchayaññū; ダンマに 堅く ダンマの・判断を・知り Nevācare dhammasandosavādaṃ, 決してしないように ダンマを・冒涜 tacchehi nīyetha subhāsitehi. 事実・実に 費やしなさい よく説かれた
ダンマを喜び
ダンマを楽しみ
ダンマを確立し
ダンマの判断を理解して
ダンマを汚すような論争は
決してしないように。
善く説かれた見事な事実に
時間を費やしなさい。
解説
ダンマの部分は、「教え」または「真理」と読み替えてもOKです。私たちの判断は常に曖昧ですが、真理の判断は1つです。2つはありません。真理の欠点を探すような無駄な時間を過ごすことなく、ただ1つの真理の探究に時間を費やしなさいということです。
SN-2-9-330
"Hassaṃ jappaṃ paridevaṃ padosaṃ, 笑話 つぶやき 嘆き 怒り māyākataṃ kuhanaṃ giddhi mānaṃ; 幻・なした 欺瞞 貪求 慢心 Sārambhaṃ kakkasaṃ kasāvañca mucchaṃ, 激昂 暴言 鞭・言葉 昏倒 hitvā care vītamado ṭhitatto. 捨てて 生きる 離れ・慢心 立つ
笑い話や愚痴
嘆きや怒り
妄想や嘘
欲深さや傲慢さ
激昂したり暴言を吐いたり
辛辣な言葉や迷いを捨てて
自惚れることなく
しっかり自律して生きなさい。
解説
冗談を言って笑ったり、TwitterでつぶやくこともNGです。冗談は人間関係の潤滑油になるように思うかもしれませんが、相手だけでなく自分の時間を奪うものです。人は誰かとしゃべりたいのです。伝えるべき大切なことがあるわけではなく、ただ感情が溜まると、発散したくなるだけなのです。
人間にとって言葉は、意思疎通を図る上で欠かせないものです。だからこそ、無駄に長々と話したり、訳のわからないことをまくし立てて、他者や自分の時間を無駄にしてはいけないのです。
ブッダが比丘たちに、正しい話し方を教えたことがあります。それによると、
- 決めたテーマからずれないこと
- 短く話すこと
- 明確に言葉を発音すること
- 声を高くしないこと
- 聴く相手に理解できる単語や表現を選ぶこと
- わかりづらいポイントは、例やエピソードなどを使ってわかりやすくすること
- 品のある言葉を使うこと
できないならば、余計なことは言わずに黙っていなさい、というのもブッダの教えです。
また、人は「私は知っている」と、言いたくてしょうがない生き物です。「私は知っている」というのは、いかなる場合であっても自惚れです。それが大きな束縛となり、進歩できなくなります。人間は宇宙レベルで見れば、誰でも大差ないのです。だから「まだ知らないことばかり」と思っていれば、まだまだ成長できるのです。
SN-2-9-331
"Viññātasārāni subhāsitāni, 経験された・本質 善く説かれたこと sutañca viññātasamādhisāraṃ; 聞いたこと・と 認識された・精神統一・本質 Na tassa paññā ca sutañca vaḍḍhati, ない それは 智慧 と 聞いた知識・と 増大する yo sāhaso hoti naro pamatto. それは 暴力 存在 人 不注意な
善く説かれた言葉は
経験された本質であり
聞いて学んだことと
サマーディの実践によって
体験された本質である。
乱暴で不注意な人の
智慧と知識は成長しない。
解説
サマーディとは、心を1つの対象に徹底的に集中する瞑想法(サマタ瞑想)によって精神統一することです。
このスッタと次のスッタには、「sāra(サーラ)本質、心材」という言葉が3回でてきます。本質とは、そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素です。真実、真髄、核心です。木が成熟すれば樹木の中心に心材ができ、心材は木の最も価値のある部分となるように、私たちの心も成熟すれば、本質が現れるということだと思います。
SN-2-9-332
"Dhamme ca ye ariyapavedite ratā, ダンマを と 彼らは 聖者・知らされた 楽しむ Anuttarā te vacasā manasā kammunā ca; 無上の 彼らの 言葉は 心は 行為は そして Te santisoraccasamādhisaṇṭhitā, 彼らは 寂静・温和な・精神統一・構成された Sutassa paññāya ca sāramajjhagū’’ti. 聞いた知識と 智慧によって そして 本質に・到達する と
聖者によって知らされた
ダンマを楽しむ人々は
言葉、心、行いにおいて卓越し
平和で穏やかに精神統一し
知識と智慧によって本質に至る。
とブッダは言いました。
解説
悟りに必要な要素は、「sīla(シーラ)戒め」「samādhi(サマーディ)精神統一」「paññā(パンニャ)智慧」の3つです。
このスッタの2行目「言葉、心、行いにおいて卓越」は、シーラの要素です。言葉・心・身体において、自ら戒めて不健全なことはしない。「正しい言葉、正しい心、正しい行為を極める」ことで、自らの生き方を戒めます。
3行目はサマーディの要素です。「正しい努力、正しい気づき、正しい精神統一」によって、心を制御する訓練をします。これは瞑想修行によって培われます。
4行目はパンニャーの要素です。真理を知ることで得た、「正しい見方、正しい考え方」によって導き出された智慧によって、心の奥深くの汚れは取り除かれて完全に浄化されます。
この3つの要素すべてが揃って、本質に至り解脱となります。詳細は八正道へ
Kiṃsīlasuttaṃ navamaṃ niṭṭhitaṃ. 何か・シーラ・スッタ集 9番目 終わり
9. 戒めのスッタ集 終わり
まとめ
自律と他律には、それぞれにメリット・デメリットがありますが、自律と他律が調和させたのが「戒律」です。
私たちの社会で考えると、上司からの指示は他律にあたります。一方、部下が自分の意見を述べることは自律です。組織にとってはどちらも重要です。上司と部下が互いに意見交換し、お互いが納得する形で新しいアイデアが生まれれば、それは組織にとって大きなメリットとなります。
しかし、その段階でどちらかが妥協してしまっては、調和が取れているとは言えず、能力が半減します。双方の意見を出し合い、お互いの能力を提供し合って、より高い次元で達成させることが重要です。仲良くやる必要はありません。どんな人でも必ず何らかの役に立つことができるのです。