3.Khaggavisāṇasuttaṃ 犀のように ①
第1章「蛇」の3つ目のスッタ集は「犀(サイ)のスッタ集」です。犀は陸上において象に次ぐ巨獣で、草食性で基本的に単独で生活します。
このスッタ集は全部で41スッタありますが、45と46以外の終わりの2行は全て同じフレーズで、次のようになっています。
eko care khaggavisāṇakappo.
独りで 行く 剣の角のように
khaggavisāṇakappo は、一般的には「犀の角のように」と訳されていますが、当サイトでは「犀のように」と訳しました。
khagga+visāṇa+kappo(剣・角・のように)=剣の角のように=犀のようにと解釈しています。
インドサイの角(ツノ)は、アフリカサイやスマトラサイとは異なり一角で、剣のような形をしています。アラビアンナイトに出てくるような曲がった短剣です。あの剣に似たツノを持つ犀のことを「剣の角」と表現したのではないでしょうか? もしかすると当時の言葉に「犀」という単語がなかったのかもしれません。
いずれにせよ「犀の角のように独りで行動する」よりも、「犀のように独りで行動する」方が自然だと思ったのです。
SN1-3-35
Sabbesu bhūtesu nidhāya daṇḍaṃ,
すべての 生物に 下に置く 棒
aviheṭhayaṃ aññatarampi tesaṃ;
害さない人 誰も それの
Na puttamiccheyya kuto sahāyaṃ,
ない 子・望む どこから 仲間を
eko care khaggavisāṇakappo.
独りで 行く 剣の角のように
暴力を振るわず
あらゆる生き物を傷つけず
子供や仲間を欲しがらずに
犀のように独りで行動しよう
解説
「非暴力で、生きとし生けるすべてのものを傷つけない」とは、言葉によっても、行為によっても、思考によっても他を害することはしない、ということです。care(carati)は「行く・歩く・行動する・生活する」という意味です。
「子供や仲間を欲しがらずに、ただ独り犀のように生きる」とは、独りで山奥に隠遁して、社会との関係を断ち、他人と口もきかず、顔も合わせずに生きる、ということではありません。子供や仲間が隣にいたとしても戯れることなく、心理的には独りでありなさいという「精神的な独立」です。
一般的な生き方は、周りの環境に依存しています。例えば、外食を楽しんでいたところに「お子さんが交通事故で危篤です」という連絡があれば、心は一転、どん底です。実際に起きたことは「お子さんが交通事故で危篤です」という音の刺激を、耳が感受したに過ぎないのですが、それを「一大事、不幸」と認識し、反応したのは自分の心です。
私たちの心は、眼耳鼻舌身で情報に触れて認識を起します。それを基に概念をつくり、考え、感情を生みだすのです。つまり、私たちが「自分」と思っている「私」とは、何の独立性もない、環境が築いた感情に過ぎないのです。環境が変わった途端に簡単に「私」も変わってしまうのです。
そんな「私の心」を安定させるために、周りの環境をいちいち改良していては、埒(らち)が明きません。自分の心を揺れないように改良するしかないのです。それが他人に依らず、生きるということです。
SN1-3-36
Saṃsaggajātassa bhavanti snehā,
接触(交際)・生じた人 ある 愛
snehanvayaṃ dukkhamidaṃ pahoti;
愛・従い 苦しみ・恋する 生じる
Ādīnavaṃ snehajaṃ pekkhamāno,
損害 愛・生じる 観察する
eko care khaggavisāṇakappo.
交わる者には情がわき
情に伴って苦しみが生じる
情によって生じる禍いに気づき
犀のように独りで行動しよう
解説
恋は盲目。恋をすると何も見えなくなりますが、恋することで生じるリスクをしっかり見なければなりません。人が恋に落ちる時には、6つの感覚器官を駆使しています。
相手の姿形を目で見て、相手の声を耳で聞いて、相手の匂いを鼻で嗅ぎ(好きな人の匂いはどんな悪臭も芳しく感じます)、相手と唇を重ねて味わい、相手の身体に触れ、好ましく思えば「快」の感覚が生まれ、愛情が芽生えます。つまり、6つの感覚器官とその対象物の接触により「快感」が生じます。
この時、好ましいと思うか、好ましくないと思うかには、根拠はありません。ただ、フィーリングで感覚的にそう認識するだけで、客観性も理性も論理的な理由もありません。体質や習慣、教育や経験した環境、暗示や知識などの影響で好き嫌いが成り立つことはありますが、論理的に導かれた結果ではありません。
この好きな人と関係をもてば、好きな人は「私の愛する人」になり、快感をもっと感じたい(kāmataṇhā)、愛する人にもっと会いたい(bhavataṇhā)、愛する人と離れたくない(vibhavataṇhā)、という渇望が生じます。
これらの渇望は強い愛着、執着であり、苦しみの原因です。6つの感覚器官とその対象物の接触により「快感」が生じ、それに対する束縛が生じたのです。つまり「愛する」というのは、ただ単に何かに病みつきになることで、執着することなのです。
愛する人もいつかは死に、いつかは必ず自分から離れていきます。愛する人がいなくなることは強い苦しみです。いつも一緒にいたとしても、「いなくなるかもしれない」という怖れが生まれます。つまり、人に愛する人が現れた瞬間から、喜びと同時に怖れが生じるということです。母子間の愛情も同様です。母親は子供を産んだ瞬間から、心配に明け暮れることになるのです。
犀のスッタ集には「pekkhamāno:観察する」が繰り返し使われていますが、ブッダのいう観察は洞察瞑想による観察であり、気づき(sati)のことです。
SN1-3-37
Mitte suhajje anukampamāno,
友 友情 随いて・迷う
hāpeti atthaṃ paṭibaddhacitto;
失う 道理を 縛られて・心を
Etaṃ bhayaṃ santhave pekkhamāno,
これは 危険 親交 観察する
eko care khaggavisāṇakappo.
友や仲間に同調して
心を縛られて道を失う
親しさには危険があることに気づいて
犀のように独りで行動しよう
解説
友達や仲間に同調することは、相手との関係において心が束縛されて、心が自由ではなくなるということです。心が縛られていては、物事を正しくありのままに観ることができなくなり、道に反する行動を起こす危険があるということです。
日本人は特に和を尊びますが、ブッダの教えでは、もっと大きな慈愛の心「mettā(メッター)」はあっても、世間レベルの同情や哀れみはありません。同情は、実は形だけのものであり、相手の幸せを望んではいません。同調して相手を承認することで、相手の目先の欲を満たしてあげようとする行為なのです。
SN1-3-38
Vaṃso visālova yathā visatto,
竹 広い ように もつれた
puttesu dāresu ca yā apekkhā;
子 妻に と 人は 期待
Vaṃsakkaḷīrova sajjamāno,
筍が・ように もつれない
eko care khaggavisāṇakappo.
竹林が絡み合うように
人は妻子に期待する
筍のようにまとわりつかず
犀のように独りで行動しよう
解説
竹林は絡み合い、もたれかかって拡がりますが、筍は単身でスクスク伸びていきます。子供や妻に対する愛情は、竹林のように感情が絡み合って愛着となり、「私のもの、私の分身」としての期待をかけてしまうものです。このことがいかに多くの人々を苦しめていることでしょう。愛情をもって育てた子供に対する愛着は、果てることのない心配事となり、心の平安を蝕むのです。
SN1-3-39
Migo araññamhi yathā abaddho,
鹿 森の中 のように 縛られない
yenicchakaṃ gacchati gocarāya;
好きな場所 行く 餌場
Viññū naro seritaṃ pekkhamāno,
賢者 人 独立した 見る
eko care khaggavisāṇakappo.
森の中で鹿が自由に
気ままに餌を探すように
賢者は自らの意志で考える
犀のように独りで行動しよう
解説
智慧のある人は、何ものにも依存していないので、執着がありません。
SN1-3-40
Āmantanā hoti sahāyamajjhe,
招待 ある 仲間・中
vāse ṭhāne gamane cārikāya;
居る 立つ 歩く 旅する
Anabhijjhitaṃ seritaṃ pekkhamāno,
ない・望まれる 独立した 観察する
eko care khaggavisāṇakappo.
仲間がいれば誘いがある
立っても歩いても
旅していても。
自由を大切にすることを
誰も望んでいないことに気づき
犀のように独りで生きよう
解説
日本人は仲間意識を大切にします。仲間と一緒にいれば、どうでもいい無駄話にも相槌を打ち、黙っているつもりでも気まずさを感じ、沈黙に耐えきれずに、馬鹿話を披露してしまったりするものです。正しく話すことは、黙っているよりも難しいものです。
ブッダの教えである「8つの正しい道」の1つに「正しい言葉」があります。「嘘をつかない。陰口・悪口を言わない。きつい言葉や失礼な言い方をしない。噂話やおしゃべりは慎む」ことが説かれています。おしゃべりは他人の時間を奪う行為です。人間関係の潤滑油だと思う人も多いでしょうが、ブッダの考えでは間違った行為なのです。
修行者は自分を大切に思うからこそ、心を浄化しようとしています。そのためには、常に自分の身体と心の感覚を観察しなければなりません。人と話していては観察できません。
SN1-3-41
Khiḍḍā ratī hoti sahāyamajjhe,
遊び 楽しむ ある 仲間・中
puttesu ca vipulaṃ hoti pemaṃ;
息子 と 広大な ある 愛情
Piyavippayogaṃ vijigucchamāno,
好きな人との別離 嫌がる・心
eko care khaggavisāṇakappo.
仲間たちと遊ぶのは楽しいし
子供への愛情は深い
大切な人たちとの別れは嫌なもの
犀のように独りで行動しよう
解説
愛する人、大切な人との別離はなによりも苦しみです。「好き(piya)」なものも、「愛する(pema)」ものも、必ず自分から離れていくのです。それは得た楽しみと割に合わないほどの苦しみを生み出します。
真理の道は、私たちが考える好き嫌いの道とは違い、好き嫌いを超えた道です。好きなものに依存しなくても、幸せでいられるように心を育てる道です。
SN1-3-42
Cātuddiso appaṭigho ca hoti,
四方八方 ない・嫌悪 そして 存在
santussamāno itarītarena;
満足する どんなものでも
Parissayānaṃ sahitā achambhī,
危機を 耐える ない・怖れ
eko care khaggavisāṇakappo.
どんな場所でも嫌悪せず
どんなものでも満足するなら
どんな困難も怖れることはない
犀のように独りで行動しよう
解説
どんな場所でも、どんなものでも満足できる人には、困難はありません。心配する必要がないので、犀のように独りで自由に生きることができるのです。