第1章 蛇:3. 犀のように 50〜59

3.Khaggavisāṇasuttaṃ 犀のように ③

SN1-3-50

Kāmā hi citrā madhurā manoramā, 
快楽は 実に 心 甘い 心地よい
virūparūpena mathenti cittaṃ;
様々な形で 惑わす 心を
Ādīnavaṃ kāmaguṇesu disvā,
過失 快楽の性質に 見て
eko care khaggavisāṇakappo.

心地快い楽しみは
実に甘く魅力的で
さまざまな形で心を惑わす
楽しみの向こうに不幸を見て
犀のように独りで行動しよう

解説

kāma(カーマ)快楽」は、俗世間での一般的な欲のことで、好きな感覚対象に触れて快い刺激を受けたいという欲望です。悪にはならない正常な欲望が kāma です。「快楽」は、心地快く楽しませることであり、嬉しい、晴々した、気持がよい、おもしろいなど、さまざまな形で心を踊らせ惑わすのです。

身体には、目・耳・鼻・舌・身・心という6つの感覚器官があります。それに色・声・香・味・触・意という6種類の情報が接触し、認識が生まれます。この時「これは快い、これは快くない」という判断が生まれます。そして、快い刺激には欲しいという欲望の感情が生まれ、快くない刺激には嫌だという嫌悪=怒りの感情が生まれます。この快い刺激を欲する欲望が kāma であり、同時に「嫌い」を避けて「好き」を追うことでもあります。

美しい景色、気分の上がる音楽、アロマのいい香り、美味しい食べ物、心地よいマッサージ。これらはすべて主観的な判断であり、これを快いとする客観的な根拠はありません。気分の問題でしかないのです。快い=善いでもありません。にも関わらず人は、色・声・香・味・触・意という対象に踊らされて、癒されたり、ムカついたり、欲望と嫌悪に振り回されているのです。

「うれしい!たのしい!大好き! 」は、残念ながら人間の苦しみの元だということです。

SN1-3-51

Ītī ca gaṇḍo ca upaddavo ca, 
悩み と 腫物 と 禍い と
rogo ca sallañca bhayañca metaṃ;
病 と トゲ 怖れ 私にとって
Etaṃ bhayaṃ kāmaguṇesu disvā,
この 怖れを 快の性質に 見て
eko care khaggavisāṇakappo.

これは私にとって
悩み、腫物、災難
病い、痛み、怖れである
快の向うにこの怖れを見て
犀のように独りで行動しよう

解説

心を楽しませる「快」は、心に心配や不安を作ります。快を求める欲望があるということは、欲望が満たされていない状態です。満たしたい快が満たされるかどうかは、不安であり怖れです。また、快が満たされると、それを失うかもしれないという不安や怖れが生まれます。

この快は、1人でいるよりも、2人でいる方がより強くなります。そこに慢心が現れるからです。自分の方が優れていると思う高慢な心、自分の方が劣っていると思う卑下の心、自分と同じだと安心する心。これらはいずれも他者と比較して思い上がる心です。他と比べて評価し、自我に捉われて固執している状態です。

SN1-3-52

Sītañca uṇhañca khudaṃ pipāsaṃ, 
寒さ 暑さ 飢え 渇き
vātātape ḍaṃsasarīsape ca;
風と熱 アブ・蛇 と
Sabbānipetāni abhisambhavitvā,
一切・もの 耐えて
eko care khaggavisāṇakappo.

暑さ寒さも、飢えも渇きも
風も太陽も、アブも蛇も
すべてを耐えて
犀のように独りで行動しよう

解説

寒ければ、暖房器具が必要になります。小さな電気ストーブを出して暖をとります。しかし最近はデロンギやサンラメラが人気のようです。エコだし、身体に良さそうだし、欲しくなります。そのためにはもっと仕事を増やして働かなくてはなりません。

そこで我慢して、今あるもので満足することが苦をなくす、苦を避ける正しい方法なのです。苦しみを避けるために欲望を増やすのでなく、苦しみを避けるために欲望を減らすのです。我慢は苦しみではなく、非常に合理的で理知的な方法なのです。今あるもので工夫して満足すれば、特別なものを望まなければ苦は増えません。

ブッダの説く忍耐は、苦しいのを我慢するというよりも、苦しい中にあっても心の平静さを保つという意味です。

SN1-3-53

Nāgova yūthāni vivajjayitvā, 
象・ように 群れ なくなり
sañjātakhandho padumī uḷāro;
生育した・集合体 班がある 高貴な 
Yathābhirantaṃ viharaṃ araññe,
好きであれば 住む 人里離れた所に
eko care khaggavisāṇakappo.

成熟した高貴な白象が
群れずに人里離れて
森の中で自由に暮らすように
犀のように独りで行動しよう

解説

padumī班がある)象とは、体表に色の薄い箇所が複数ある象で、一定以上の基準を満たしたものは白象として認められるそうです。白象は、インドや東南アジアでは神聖視されています。困難を乗り越え成熟した象は、人里離れた森の奥に自由に暮らすということです。

SN1-3-54

Aṭṭhānataṃ saṅgaṇikāratassa, 
場違い 社交好き
yaṃ phassaye sāmayikaṃ vimuttiṃ;
ことは 接触 一時の 解脱
Ādiccabandhussa vaco nisamma,
太陽の親族(ブッダ) 言葉 慎重に
eko care khaggavisāṇakappo.

社交好きな人は
一時的な悟りを得ることもない
というブッダの言葉に耳を傾け
犀のように独りで行動しよう

解説

Ādiccabandhu:太陽の親族=日種族のこと。古代インドの王家はほとんどが日種と月種のどちらかの系統に分類されました。ブッダの一族であった釈迦族は日種です。

「一時的な悟りを得ることもない」とは、一時的な解脱(解放)のことで、サマタ瞑想によってジャーナの精神状態に入り、一時的に欲を離れた状況です。「他人と一緒にワイワイいることを楽しむ人は、一時的な解脱も経験できない」ということです。

人と一緒にいると、意識はどうしても外へと向かいます。これは常に外から自身を守るための生存本能です。意識が外に向いていれば、心の内に気づくことがおろそかになります。心を浄化することができないのです。ただし、人と一緒にいても、それを楽しまないクールな人は、自分の心に意識を向けることができます。

SN1-3-55

Diṭṭhīvisūkāni upātivatto, 
意見・騒動 から逃れ
patto niyāmaṃ paṭiladdhamaggo;
取得 決定 獲得・道
Uppannañāṇomhi anaññaneyyo,
発生した・智慧 ない・他・導かれる
eko care khaggavisāṇakappo.

論争を逃れ
到達した確かな道
智慧が生じ
他者から導かれることはない
犀のように独りで行動しよう

解説

niyāma決定(けつじょう)とは、悟りの境地に到達すること、つまり解脱が決定しているということです。疑いのないこと、必ずそうなるという意味です。議論では解脱できませんが、8つの正しい道を実践することで、解脱できるとブッダは教えています。

SN1-3-56

Nillolupo nikkuho nippipāso, 
欲なく 偽りなく 渇望なく
nimmakkho niddhantakasāvamoho;
偽善なく 消し去る・汚れ・無知
Nirāsayo sabbaloke bhavitvā,
執着から解放 一切・世界 あったこと
eko care khaggavisāṇakappo.

欲もなく、偽りもなく
渇きも偽善もない
妄想と汚れを消し去り
この世のあらゆるものへの執着を離れ
犀のように独りで行動しよう

解説

あらゆるものへの執着を離れるとは、物や人に一切依存しないということです。でもお互い依存し合わないと生きていけないじゃないか、と思うかもしれません。ここでの依存は共依存ではなく、依存=執着=要求です。共依存はお互いさまという助け合いの精神から発しています。子供だから当然、夫だから当然ではないのです。

SN1-3-57

Pāpaṃ sahāyaṃ parivajjayetha, 
悪い 仲間を 避ける
anatthadassiṃ visame niviṭṭhaṃ;
使い物にならないこと 不正の 固執する
Sayaṃ na seve pasutaṃ pamattaṃ,
自ら ない 付き合う 執心者 怠け者
eko care khaggavisāṇakappo.

良からぬこと
役に立たないことに熱中する
悪い仲間を避けて
怠け者やこだわる人とは付き合わずに
犀のように独りで行動しよう

解説

悪友とは、他の生き物の役に立たないことや、困らせること、傷つけることをする人です。行動だけでなく、言葉でも思考でも、役にたたないこと、困らせること、傷つけることは悪行です。こうして書くとなんだか小学校低学年向けの教訓のようですが、こんな当たり前の悪いことを、世の中の大人の多くの人が平然とやっているのです。

SN1-3-58

Bahussutaṃ dhammadharaṃ bhajetha, 
博識 ダンマを保つ人 親しむ
mittaṃ uḷāraṃ paṭibhānavantaṃ;
仲間 秀でた 弁才に富む
Aññāya atthāni vineyya kaṅkhaṃ,
悟りに至る 道の 除き 懐疑を
eko care khaggavisāṇakappo.

博識でダンマの教えを実践する人
秀でた賢い仲間と付き合いなさい
悟りに至る道への疑問を除き
犀のように独りで行動しよう

解説

善友とは上述した悪友の反対の行動をする人です。同時に、ブッダの教えに導いてくれる人であり、なによりブッダが私たちの最善の友です。

SN1-3-59

Khiḍḍaṃ ratiṃ kāmasukhañca loke, 
遊び 喜楽 快楽・幸福 世界
analaṅkaritvā anapekkhamāno;
ない・満足して ない・期待して
Vibhūsanaṭṭhānā virato saccavādī,
飾り立てる 離れる 真実・語る
eko care khaggavisāṇakappo.

世の中の遊びや娯楽や幸福に
満足せず、期待せず
飾ることなく真実を語り
犀のように独りで行動しよう

解説

世俗の楽しみや幸福を追い求め、欲望を満たすことが幸せではありません。ここで言う飾ることは、外面内面共に飾ることを指しています。いくら美しい服と装飾品で着飾っても、心が汚れていてはいけません。着飾らなくても心が清い人は輝くような美しさを醸し出し、誰の目にも感じられるものです。同様に心を飾らず、ありのままの言葉を偽りなく語ることは、できそうでなかなかできないことです。聞く方は簡単に偽りを見破り、飾らぬ言葉に心を許すのです。