SN1-1-6
Yassantarato na santi kopā, 超える ない 平静 怒り itibhavābhavatañca vītivatto 実に・存在・非存在 超えた So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
その心に怒りはなく穏やかで
あると思う心も
ないと思う心も
超越した修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
このスッタのキーワードは、bhavābhava=bhava(存在・ある)+abhava(非存在・ない)です。「ある」と思うことは苦しみを生みだし、「ない」と思うことも苦しみとなります。
例えば、夜中に何か物音が聞こえたとします。「泥棒? 幽霊?」と想像して怖くなり、眠れなくなります。これは「音がある。その音は誰かが出す。音を出す誰かがいる」という認識から生まれます。「いや、ここには誰もいない。あの音は誰かが出した音ではない」と考え直すと、恐怖感が消えます。「音がある=誰かがいる」という不確かな認識が、「誰もいない」という認識に変わったからです。
この時、実際にある音について「空耳だ。音はない」と思い込むことも、事実と異なり妄想です。ネガティブな妄想もポジティブな妄想も、妄想に過ぎず、無知で正しくないのです。「音はあるが、誰かがいるわけではない」と、正しく思考し直すことが大切です。
また、「ない」と思う概念は「ない」のではありません。「あって欲しいものがない」ということです。その欠乏感が苦しみを生み出します。
人は、財産があったら、容姿端麗だったら、博識だったら、体力があったら、時間があったらと思う時、「あって欲しいものがない」という概念のせいで苦しんでいます。対人関係で悩む時も、その苦しみは「私を侮辱する人がいる」という「ある」という概念から苦しんでいます。かといって「その人がいない、私は侮辱されていない」と思うことも、事実と異なる逃避であり、「ない」と思い込む誤った思考です。
SN1-1-3でも述べたように、すべての「dukkha(ドゥッカ)苦しみ=思うがままにならないこと」の原因は「Taṇhā(タンハー)渇望」であり、人が生きる限り常に流れ続けるエネルギーです。「バーヴァタンハー」は、「存在して欲しいと求める渇望」で、好きなものがあって欲しいという「ある」を求める心です。「ヴィバーヴァタンハー」は、「存在して欲しくないと求める渇望」で、嫌いなものがなくなって欲しいという「ない」を求める心です。ブッダは、この両方の偏った見方に依らない中道を説きました。
すべての物事は納得する以前に消えてしまいます。満足する前に状況は変わってしまうのです。瞬間瞬間、絶えず起こる変化=無常が、渇望を生み出す原因です。実際は何かが「ある」からでもなく、「ない」からでもないのです。
SN1-1-7
Yassa vitakkā vidhūpitā, 人 思考 散り散りになる(破壊) ajjhattaṃ suvikappitā ases 内側 整えられた 完全 So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
心が作り出す思考を追い払い
心の内を完全に整えた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「思考」は、一般的な定義では「考えや思いを巡らせることで、筋道や方法などを模索する精神の活動」と言われています。しかし、実際には「過去に経験した記憶が描く、感情がセットになった言葉と映像」に過ぎないのです。
人は生きている間、意識的にしろ、無意識にしろ、さまざまな経験によって物事を条件づけられています。例えば、犬に吠えられて、怖いと思えば、犬に対して恐怖感を抱くようになる条件反射が形成されます。これが条件づけです。これらの条件づけは「記憶」として脳に保存されます。脳はこのようなエピソード記憶を無意識のうちに保存し、また、ときどき思い出して(想起)自分に都合よくアップデートしています。これが思考です。
この記憶が描く言葉と映像を何度も繰り返しているうちに物語が形づくられ、それを「自分」と定義する習慣が人間にはあるのです。つまり「自分」とは、ひっきりなしに快楽を追いかけ、苦痛を避けようとする思考の仕組みです。これが自我が存在する基となる知的作用です。
SN1-1-8
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ accagamā imaṃ papañcaṃ; 一切 克服 これ 妄想 So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
すべての妄想を克服した修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
8〜13のスッタ(法話)は、すべて出だしが同じフレーズです。accasariは「限界を超えてしまうこと、道を踏み外すこと」です。「行き過ぎることも、後退することもなく」と中道を説くスッタです。
一切が無であると知った時、「だったら、なんでもありだ! 好き勝手に生きよう!」と行き過ぎるのではなく、「では、もはや何もすることはない。生きる価値はない」と虚しさを感じて消え入るのでもなく、バランスをとって中道を行きなさい、ということです。
SN1-1-9
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ vitathamidanti ñatvā loke; 一切 事実ではない 知っている 世界 So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
この世のすべてが事実ではないと
気づいた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
この世のあらゆる物事は、心が作り出す現象に過ぎません。人がとらわれる「価値」も同様に、事実ではなくただの観念です。それに対して「無常」は、確固たる事実です。
一国の大統領でも、アフリカのサバンナに一人放り出されれば、動物の餌食です。その人を大統領だと認識するのは、その国を中心とした偏った概念に賛同して価値として共有している極一部の人間だけなのです。その国の動物や昆虫、その他の生命はその人を大統領だとは、思っていません。
世界の人口は約80億人ですが、人が人生でなんらかの接点を持つ人は3万人だと言われています。 たった0.000375%です。このうち、学校や仕事を通じて近い関係になる人は、3,000人。親しい会話ができる人は、300人。友達と呼べる人は、30人。親友と呼べる人は、3人だそうです。この世の大多数の人にとって「私」は認識されることはなく、存在していないのです。
SN1-1-10
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ vitathamidanti vītalobho; 一切 事実ではない 欲から離れる So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
すべてが事実ではないと気づいて
欲を離れた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「lobha(ローバ)欲求」は、求める心のことです。欲望に該当するパーリ語は、lobha・kāma・rāga・ taṇhā などがありますが、lobhaは「根本的な欲求」です。空腹で食べ物が欲しいと思う「自然な欲求」も、不倫をしたいと思う「不浄な欲望」も、すべてlobhaに含まれます。
SN1-1-11
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ vitathamidanti vītarāgo; 一切 事実ではない 欲望から離れる So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
すべてが事実ではないと気づいて
欲望を離れた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「rāga(ラーガ)欲望」は、根拠なく感覚的な刺激(快)がもっと欲しいと求める心で、lobha が強まったものです。何としても自分のものにしたいという性的な欲望や、子供に執着する母親の愛着が rāga です。
欲深く望むこと、飽くことなく欲しがることで、欲したものを、次から次へと求める欲望です。欲望の対象に固執して、駆り立てられるように追い求める深い執着心となります。
SN1-1-12
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ vitathamidanti vītadoso; 一切 事実ではない 怒りから離れる So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
すべてが事実ではないと気づいて
怒りを離れた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「dosa(ドーサ)怒り」は、「怒り」や「悪意」の心です。怒りが起きると、心が束縛されてコントロールできなくなります。dosa の象徴は蛇です。
SN1-1-13
Yo nāccasārī na paccasārī, 人は 否・行き過ぎ ない 逆に・行き過ぎ sabbaṃ vitathamidanti vītamoho; 一切 事実ではない 無知から離れる So bhikkhu jahāti orapāraṃ, そんな 比丘 捨てる 此岸と彼岸 urago jiṇṇamivattacaṃ, purāṇaṃ. 蛇が 枯れ朽ちた・皮 古い
行き過ぎることも
止まることもなく
すべてが事実ではないと気づいて
無知を離れた修行者は
蛇が脱皮するように
苦しみの世界から抜け出す。
解説
「moha(モーハ)無知」は、無知・妄想・迷いと訳しますが、「心の状態が明確でなく愚かな状態、それに基づいて悪い行為を作ってしまうこと」を意味します。心が「混乱」した状態であり、無知が起きると、心は正しい判断ができなくなります。
10〜13のスッタのキーワードである「欲・欲望・怒り・無知」は、「Taṇhā(タンハー 渇望)」に変化し、苦しみの原因となります。