第1章 蛇:3. 犀のように 60〜70

3.Khaggavisāṇasuttaṃ 犀のように ④

SN1-3-60

Puttañca dāraṃ pitarañca mātaraṃ, 
子 妻 父 母
dhanāni dhaññāni ca bandhavāni;
財産 穀物 と 親戚
Hitvāna kāmāni yathodhikāni,
捨てて 快楽を ある限りの
eko care khaggavisāṇakappo.

妻子、父母、財産
食糧、親戚
あらゆる快楽を捨てて
犀のように独りで行動しよう

解説

スッタニパータは、ダンマパダとは違って出家修行者に向けたものなので、執着の原因となるものを全て捨てて、修行することが説かれています。

SN1-3-61

Saṅgo eso parittamettha sokhyaṃ,
束縛 これは 少ない・ここに 幸せ
appassādo dukkhamettha bhiyyo;
味気ない 苦しみ・ここに より多く
Gaḷo eso iti ñatvā mutīmā,
釣り針 これは と 知り 思慮深く
eko care khaggavisāṇakappo.

これは束縛だ
ここには幸せはほとんどない
苦しみばかりで楽しみはない
これは釣り針なのだと
思慮深く気づき
犀のように独りで行動しよう

解説

これとは、60のスッタであげられた「妻子、父母、財産、食糧、親戚、あらゆる快楽」のことです。これらが欲望をつくり、執着となり、苦しみの原因なのだから、その釣り針に引っかからないように思慮深く気づきなさい、ということです。

欲望は苦しみから逃れようとして現れるものです。喉が渇いたという苦しみから逃れるために、水が欲しいという自然な欲求が生まれます。人はこの苦しみを解決するために、水を求めます。入手できなければ喉がカラカラに乾いて困った事態で苦痛となり、少ししか入手できなければ不安になります。何としてでも手に入れなければと焦ります。そしてもっと欲しいという渇望が生まれます。やっと入手した水が汚れていれば怒りにもなります。見つけた水のボトルを買い占めて、店頭からペットボトルが品切れになります。それをニュースで見て、喉が渇いていなくても水がもっと欲しくなります。争って奪ってまで入手しようとする人も出てきます。水に執着している状態です。

このように当たり前の本能の欲求から欲望が生まれ渇望となり、怒りや不安を引き起こし、執着となり、苦しみの原因となっているのです。私たちは自分の外に苦しみの原因を見つけようとしますが、本当は自分の本能が苦しみの原因です。

SN1-3-62

Sandālayitvāna saṃyojanāni, 
壊して 束縛
jālaṃva bhetvā salilambucārī;
網・ように 破り 水中・魚
Aggīva daḍḍhaṃ anivattamāno,
火・ように 焼けた ない・戻る
eko care khaggavisāṇakappo.

水中の魚が網を破るように
束縛を破って
焼け跡にもう火が立たないように
犀のように独りで行動しよう

解説

水中の魚が網を破るのは簡単なことではありません。同じように困難な、束縛を破ったなら、焼け跡に再度火が立たないように、もう束縛が現れないようにしなさい、ということです。

SN1-3-63

Okkhittacakkhū na ca pādalolo, 
目を伏せて ない と うろつく
guttindriyo rakkhitamānasāno;
感覚が鋭い 守る・心の意
Anavassuto apariḍayhamāno, 
ない・欲望にまみれた 焼かれないように
eko care khaggavisāṇakappo.

目を伏せてうろうろしないで
感覚を研ぎ澄ませて心を守り
欲望にまみれて焼かれることなく
犀のように独りで行動しよう

解説

Okkhittacakkhū「目を伏せて」は、①外に目を向けずに自分自身の足元(心)を見なさい、②足元にいる生命(虫など)を殺生しないように、という2つの目的があります。ヴィパッサナー 瞑想のロングコースでは、毎日「オッキタチャックー」に注意するよう促されます。

pādalolo「うろつく」とは、①世俗の世界をうろつく、②ブッダの教えの道を迷ってグズグズするという意味です。apariḍayhamāno「焼かれない」は、情熱、嫌悪、妄想の火で燃えないことを意味します。

SN1-3-64

Ohārayitvā gihibyañjanāni, 
取り去り 家の印
sañchannapatto yathā pārichatto;
いっぱい・葉 のように パーリチャッタ
Kāsāyavattho abhinikkhamitvā,
黄衣・まとう 向って・家を離れた
eko care khaggavisāṇakappo.

パーリチャッタの木のように
多くの世俗の生活を捨て
黄色の衣をまとって出家する
犀のように独りで行動しよう

解説

パーリチャッタ(デイゴ)の木は、インド原産のマメ科の落葉高木で、華やかな赤い花が咲きます。この木の下で33天(天界の神々)が遊ぶという、荘厳な樹木です。パーリチャッタの葉がしおれて黄色くなると、33天は「葉が落ちて新芽が出る」と喜び、「新芽が出たら蕾になる」と喜び、「蕾が開けば花が咲く」と喜ぶ様子を、出家僧に喩えたものです。在家者は白衣を着ますが黄衣をまとうことで、葉が落ちて出家僧として新芽が出て、蕾は悟りの段階を得て開花し涅槃に至るからです。

SN1-3-65

Rasesu gedhaṃ akaraṃ alolo, 
味について 貪欲 なさずして 不動の
anaññaposī sapadānacārī;
ない・他・養う 一軒の家も残さず托鉢する
Kule kule appaṭibaddhacitto,
家に 家に しがみつかない
eko care khaggavisāṇakappo.

味にこだわらず、心を動かさず
他者を養うことなく
家々を回って施しを受ける
この家にも、あの家にもとらわれずに
犀のように独りで行動しよう

解説

出家者は、共に修行する仲間を養う必要もなく、各自が托鉢をして家々を回り、各自が施されたものを食べて生きています。施しに対して、おいしいとか、まずいとか心に浮かべることなく、与えられたものに満足するのみです。あの家の食事はおいしいから明日も行こうとか、この家はまずいからもう行かない、などととらわれることもありません。

SN1-3-66

Pahāya pañcāvaraṇāni cetaso, 
捨てて 5つの障害 心の
upakkilese byapanujja sabbe;
不純物 破壊する 一切
Anissito chetva sinehadosaṃ,
依存しない 断つ 愛情・嫌悪
eko care khaggavisāṇakappo.

心の5つの障害を捨てて
すべての汚濁を払いのけ
快・不快を断って
何ものにも依存せず
犀のように独りで行動しよう

解説

5つの障害とは、心を曇らせる原因となる障害で、①感覚的欲求、②嫌悪、③怠惰(無気力)、④不安(焦り・心が落ちつかない様子)、⑤疑い(迷い)の5つです。

これは、心を何か1つに徹底的に集中して精神統一するサマタ瞑想によって達するジャーナの最初の段階に至るための要素です。心に他の情報が入るのを遮断できるようになると、集中力自体が心に強烈な喜悦感を与えます。それによって俗世間の記憶や欲に対する興味が薄れ、一時的に欲の世界から離れることができます。すると宇宙と一体になった状態が流れていくような経験が生まれるのです。その心の状態が「ジャーナ」です。

最初の段階では、心は欲からは離れていますが、歓喜(pīti)と幸福感(sukha)が残り、思考もある精神状態です。

Majjhima Nikāya(スッタピタカの2番目「マッジマ・ニカーヤ=中編集」)119の記述によると、「注意深く熱心に修行しているうちに全身は歓喜に覆われて、家庭生活に関するあらゆる記憶や決意から心が離れ、それによって心は内側に集まり、落ち着き、統一され、集中されるようになる。このように僧侶は肉体に没頭することで、心を発達させていく」とあります。

SN1-3-67

Vipiṭṭhikatvāna sukhaṃ dukhañca, 
諦める 快適 苦・と 
pubbeva ca somanassadomanassaṃ;
過去の と 喜悦感・憂鬱感を
Laddhānupekkhaṃ samathaṃ visuddhaṃ,
得て・望ましい サマタ(心が定) 純粋
eko care khaggavisāṇakappo.

苦も楽もなくなり
過去の喜びや悲しみの記憶も薄れ
心は静寂で純粋になる
犀のように独りで行動しよう

解説

pubbeva ca somanassadomanassaṃ は、俗世間での楽しかったこと、悲しかったことの記憶と解釈しました。samatha(サマタ)は心が静寂で止まった、定まった状態です。visuddha は、清らかで純粋な明るい神聖な状態を意味します。これらはジャーナの最終段階である第4段階目を示しています。

第2段階で思考が消え第3段階で歓喜も消えます。第4段階では幸福感も消え、苦も楽もなくなり、心の揺れ動きが一切ない精神状態となり、心の平静さだけに気づいている状態です。頭から足まで白い布で覆われたように、心から純粋で明るく清らかな意識で全身を浸透させて坐っている状態になるそうです。

SN1-3-68

Āraddhavīriyo paramatthapattiyā, 
励む・努力 究極の真理・至る
alīnacitto akusītavutti;
縮むことなく・心は 怠惰なく・習慣
Daḷhanikkamo thāmabalūpapanno,
確固たる・努力 力・強い・生まれる
eko care khaggavisāṇakappo.

究極の真理に至るため
努力して励み
心はくじけることなく
習慣を怠ることなく
確固たる信念を持って
犀のように独りで行動しよう

解説

究極の真理とは「nibbāna(ニッバーナ)涅槃」のことです。困難にあっても心は怯んだり萎縮したりすることなく、習慣(心を浄化する修行)を怠けることなく、という意味です。

SN1-3-69

Paṭisallānaṃ jhānamariñcamāno,
隠遁  ジャーナ・捨てず
dhammesu niccaṃ anudhammacārī;
ダンマにおいて 常に 従う・ダンマ・生活
Ādīnavaṃ sammasitā bhavesu,
不幸 理解する 存在において
eko care khaggavisāṇakappo.

世俗から離れて瞑想を続け
常にダンマに即して暮らし
生きることの不幸を理解して
犀のように独りで行動しよう

解説

隠遁(いんとん)とは、俗世間との交わりを絶って、人里から離れて暮らすことです。日本ならば山奥に籠ること、インドなら森の中です。豊かな現代の日本なら、人里離れた山奥よりも都会の真ん中の方が、孤独に生きるのに適しているかもしれません。

SN1-3-70

Taṇhakkhayaṃ patthayamappamatto, 
渇望・滅尽 怠らず・追求
aneḷamūgo sutavā satīmā;
ツンボではない 聞いた経験がある よく気づく
Saṅkhātadhammo niyato padhānavā,
真理を極め 自制 努力
eko care khaggavisāṇakappo.

渇望の滅尽を怠らず追求し
注意深く、賢く、学識があり
真理を極め、自制し努力して
犀のように独りで行動しよう

解説

Taṇhā(タンハー)渇望」は、生きている限り心が絶えず求め続けるエネルギーです。その求めに応じて(反応して)「このままではいけない」と焦ったり、「何かが足りない」と何とかしようとしたところで、決して満たされることはなく、死ぬまで続く心の反動エネルギーです。だから反応するだけ無駄なのです。