第3章 大きな章:12. 2種類の観察法② 743〜758

12. Dvayatānupassanāsuttaṃ 2種類の観察法 ②

ブッダは2種類の観察すべきこととして「1. 苦しみの発生と消滅」>2. upadhi(制約)>3. avijjā(無明)>4. saṅkhāra(反応)>5. viññāṇa(意識)>6. phassa(接触)」の6つを挙げました。続きです。

(7) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ vedanāpaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて 感覚・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Vedanānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
感覚があること どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ 2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

7.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては感覚が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、感覚を捨てて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Vedanā(ヴェーダナー)感覚です。感覚は身体に生じる肉体的な感覚(五感)と心に生じる感覚(感情)の6つの感覚があり、それぞれの感覚器官(目耳鼻舌身心)を通して感受しますが、それぞれが受け止めることができる情報の種類が違います。

(視覚)が受け止める情報は色情報だけです。音や匂いを目では感受できません。(聴覚)は(嗅覚)は匂い(味覚)は身体(触覚)は皮膚で感じる温度や圧力浮かぶ表象刺激情報です。

SN-3-12-743

"Sukhaṃ vā yadi vā dukkhaṃ, 
快楽 或は もし 或は 苦しみ
adukkhamasukhaṃ saha;
不苦・不楽を 共に
Ajjhattañca bahiddhā ca, 
内に・と 外に そして
yaṃ kiñci atthi veditaṃ.
それが 何でも 存在 感受する

快、不快
あるいはどちらでもない。
内的に外的に感受したものは
それが何であっても
(この3つの)いずれかになる。

解説

6つの感覚器官接触した刺激情報には、身体の内側でも外側でも、Vedanā(ヴェーダナー)感覚が生じます。何であっても「(受け入れる)・不快(拒む)・どちらでもない」の3パターンのどれかの感覚が生じます。私たちは、あれこれ考えているようでも、すべてがこの3択が発端となっています。

SN-3-12-744

"Etaṃ dukkhanti ñatvāna, 
これが 苦しみだと 知って
mosadhammaṃ palokinaṃ;
偽りの・現象を 破壊すべき
Phussa phussa vayaṃ passaṃ, 
接触 接触 我々は 見て
evaṃ tattha vijānati;
このように そこで 離・楽しみ
Vedanānaṃ khayā bhikkhu, 
感覚を 滅尽により 比丘は
nicchāto parinibbuto"ti.
無欲 完全・涅槃 と

この感覚が苦しみだと知って
幻想を破壊すべきだ。
接触するたびに
(刺激が変化するのを)
我々は見て
刺激を楽しむことを離れて
比丘は感覚を捨てて
無欲となり、涅槃に至る。

解説

私たちは、6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)に外部の情報=対象物(色声香味触情)が接触すると瞬時に、無意識に感覚(快・不快・どちらでもない)が生じます。同時に過去の記憶から概念データを加えて情報を区別判断saññā サンニャー)し、自分なりに意味付けしたものを自分の認識とします。この認識作用意識viññāṇa ヴィンニャーナ)=citta チッタ)です。によって情報が意味に変わり、意図や動機となって次の行動を促します。

つまり私たちは、外部の情報をありのままの情報として認識できないシステムなのです。あれこれ考えているようでも、単にその瞬間にたまたま生じた感覚に振り分けられて、偏った意味づけを加えて判断しているだけです。だからあらゆる現象が、ありのままではないMusā-dhamma:偽りの現象=幻想です。

(8) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ taṇhāpaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて 渇望・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Taṇhāya tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
渇望を どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

8.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては渇望が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、渇望をやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Taṇhā(タンハー)渇望とは、強く求めることです。渇望には3つの種類があります。「Kāmataṇhā(カーマタンハー)身体的な渇望」は、五感で得る快感(嬉しい、楽しい、喜びを感じること)を切望することです。
Bhavataṇhā(バーヴァタンハー)存在を求める渇望」は、愛着を抱くものや心地快いと思うものが、ずっと存在してほしいと切望することです。
Vibhavataṇhā(ヴィバーヴァタンハー)存在しないで欲しいと求める渇望」は、嫌いなものや不快だと思うものが、なくなってほしいと切望することです。

SN-3-12-745

"Taṇhādutiyo puriso, 
渇望・伴う 人は
dīghamaddhāna saṃsaraṃ;
長い・時間 輪廻する
Itthabhāvaññathābhāvaṃ, 
ここの状態から他の状態へ
saṃsāraṃ nātivattati.
輪廻を ない・克服

渇望に伴われた人は
長い間、輪廻する。
今世の存在から来世の存在となり
輪廻を克服することはない。

解説

渇望は非常に強いエネルギーです。人が死ぬ瞬間に、次の転生につながるエネルギーとなる「bhāva- saṅkhāra」の源になります。

SN-3-12-746

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これが・禍いと 知って
taṇhaṃ dukkhassa sambhavaṃ;
渇望を 苦しみの 原因と
Vītataṇho anādāno, 
離れ・渇望 無・執着
sato bhikkhu paribbaje"ti.
気づきある 比丘は 遍歴するように と

渇望が苦しみの原因である
これが災いになると理解して
気づきのある比丘は
渇望を手放して執着せずに
遍歴するように。

解説

渇望捨てて手放すことで、渇望から自由になり、渇望を切り離すことができます。では、どこでどうやって渇望を捨てるのでしょう? 渇望が生じたのと同じ場所で、渇望を止めると渇望は放棄されて止まります。渇望が生じる場所と、消滅する場所同じなのです。(←ここが瞑想のポイント)

(9) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ upādānapaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて 執着・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Upādānānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti,
執着すること どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 出現
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

9.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては執着が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、執着をやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Upādāna(ウパーダーナ)執着とは、思い入れのある人や物、行為に、愛情や支持・保護・援助を求めてしがみつく状態です。自分が安心感や満足感を得たいがために、相手にしがみついたり、相手を束縛しようとして執着となり、結果、自分の心を自分で束縛している状態です。それが依存であり、苦しみの原因です。

SN-3-12-747

"Upādānapaccayā bhavo, 
執着・縁として 存在は
bhūto dukkhaṃ nigacchati;
生物は 苦しみ 受ける
Jātassa maraṇaṃ hoti, 
生まれた 死ぬ 存在
eso dukkhassa sambhavo.
これは 苦しみの 原因

存在は執着の結果であり
生きるということは
苦しみがあるということ。
生まれた生物は必ず死ぬ
これが苦しみの原因である。

解説

私たちは反応の結果、生きています。呼吸を止めると苦しい。苦しいから息を吸う。吸ったままだとまた苦しくなるから吐く。吐いたままでも苦しいからまた吸う。この反応の繰り返しで生きています。苦しみを避ける反応=生存本能です。苦しいと反発する作用があるから生命が維持されるのです。これが苦しみの真理です。

SN-3-12-748

"Tasmā upādānakkhayā, 
それ故 執着の・消滅によって
sammadaññāya paṇḍitā;
正しく知って 賢者たちは
Jātikkhayaṃ abhiññāya, 
誕生・消滅 熟知して
na gacchanti punabbhava"nti.
ない 行く 再びの生存 と

だから賢者は
執着を消すことを
正しく理解して
生と死を熟知すれば
再び生まれ変わることはない。

解説

人が死ぬ瞬間には、ある種の執着が生じるそうです。これによって生成の過程bhava)が発生して、次の生命に意識が転生して誕生するそうです。

S.N.ゴエンカ氏の著書『The Art of Dying』によると「死の瞬間、意識の中に非常に強い特定のサンカーラ(bhāva- saṅkhāra)が生じます。このサンカーラは、次世で新たな意識の生成(誕生)をもたらす力を持っていて、バーヴァサンカーラカンマ)の反応のエネルギーが、次の存在界(bhāva-loka)への意識の流れを後押しする」そうです。(詳細はこちら

誕生すると老いと死が生じ、悩みや悲しみ、肉体的・精神的な苦しみ、不安が生じることになります。これが、Paṭicca-samuppāda縁起の法則)です(詳細はこちら)。アビダンマの解説ではここまでですが、ブッダ の説明は、まだ続きがあります。

(10) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう

Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ ārambhapaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて 開始・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Ārambhānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
開始を どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 出現
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

10.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては開始が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、開始することをやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

Ārambhā:ā+rabha(rabhi)「開始・始動・始まり」という意味です。

私たちの自我は何か欲求が生じると、基本的にいつも同じ思考パターンをたどります。意識を対象にフォーカスした瞬間に、知識(経験・記憶)への照合を開始し、目的に至る最善の手段について検討を開始します。この時、経験のない(分類できない)ものは「間違っている」と排除し始めます。思考の基本機能は、比較判断することです。この次々と生じる「思考の開始」が ārambhā だと解釈しました。

私たちの自我は何か結果を得ようとする時、その結果ではなく手段にフォーカスし始めます。自我は、「どうすればうまくいくか」「自分で何とかしよう」と方法を考え始めるのです。これが余計なことで、人間の無限の可能性を有限にしてしまう所以です。

SN-3-12-749

"Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti, 
それは 何でも 苦しみは 出現
sabbaṃ ārambhapaccayā;
すべて 開始・縁となり
Ārambhānaṃ nirodhena, 
開始を 破壊する
natthi dukkhassa sambhavo.
ない 苦しみ 出現

それが何であれ
苦しみが生じるのは
すべては(対処しようと)
考え始めることが原因である。
意識的に始めなければ
苦しみも生じない。

解説

私たちが「意識的に何かをしようとすると、ロクでもないことが起きる」と言っても過言ではありません。

身も蓋もありませんが、顕在意識で考えて何かを始めることは、自我のエネルギーが働いているので、結局、苦しみの原因にしかならないようです。何かに対処しようと働きかける心には、「なんとかしたい」というがあり、「このままではいけない」という思考による判断(固定観念・価値観)があり、自然に起きた出来事に抗って、現実を「ありのままに受け入れていない」状態です。あれこれ考えたところで、所詮、人間の考えは真理に従ったものではなく、自分の都合に合わせたものだからです。

SN-3-12-750

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これが・禍いと 知って
dukkhaṃ ārambhapaccayā;
苦しみを 開始・縁となる
Sabbārambhaṃ paṭinissajja, 
すべて・開始を 捨てて
anārambhe vimuttino.
無・開始の 解脱者は

苦しみの原因は
(対処しようと)
考え始めることにあり
これが災いになると理解して
対処することを止めた
解脱者に作為が全くない。

解説

絶望」したことがありますか? 絶望とは、希望がすべて消えて、何もかも期待が持てなくなり、「人間として完全に終わった」という気分で、すべてを諦めた状態です。しかし、人間を捨てて、もし本当に「絶望」できたなら、これはある意味「解脱」です。何かをやらなければいけない人から、ありのままの人になった状態だと言えます。

絶望から一発逆転、大成功をおさめる人が時々いますよね。

絶望は、宇宙エネルギー的には、作為が尽きて自我を手放した状態であり、最も覚醒のポテンシャルが高い状態だそうです。夢も理想も目標もすべて消え、望みがすべて絶たれて欲が無になり、顕在意識による(抗う)エネルギーの発動を停止した状態です。これは「無気力」とは違います。

自我が自らにダメ出しした結果、これ以上ダメな判断を続けることを放棄し、意識が今この瞬間から動かなくなった状態でもあります。すると潜在意識が動くしかない状態になり、爆発的なエネルギーが発生しやすくなるそうです。このエネルギー作用によって覚醒が起こるようです。内と外の意識の反転です。覚醒は学んだから起こるのではなく、このようなシステムで生じるようです。

しかし多くの人は絶望する前に、他者を恨んだり憎むことでエネルギーを創出し、自我を死守するようです。面白い仕組みですよね。

SN-3-12-751

"Ucchinnabhavataṇhassa, 
切断する・生存への・渇望を
santacittassa bhikkhuno;
寂静の・心の 比丘によって
Vikkhīṇo jātisaṃsāro, 
完全・破壊 誕生・輪廻は
natthi tassa punabbhavo"ti.
ない 彼に 再び・生存は と

生きることへの渇望を断ち切り
寂静の心の比丘によって
誕生と輪廻は完全に破壊され
彼が再び生まれることはない。

解説

生きることへの渇望Bhavataṇhā)が、転生へのエネルギー源bhāva- saṅkhāra)となります。

(11) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう

Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ āhārapaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて ・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Āhārānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
糧 どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 出現
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

11.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては糧が原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、を断って、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師はこう言いました。 

解説

Āhāra(アーハーラ)=(かて)です。私たちは、さまざまなものを外から取り入れて生きていますが、その身体や心に栄養を与える滋養=生命が生きるためのエネルギー源アーハーラです。

口から摂取する食糧だけでなく、私たちは喜びや楽しみといった刺激も糧としていますし、怒りを活力としている人もいます。この心身の糧となるアーハーラ」には4つの種類があり、仏教用語では「四食(しじき)」と呼びます。

Kabaḷīkāra āhāra:口から摂取する食糧、いわゆる飲食物です。

Phassāhāra:接触から得る感覚的な刺激です。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わって、触れて養う滋養です。美人を見たり、素敵な音楽を聞いて感動したり、香りやマッサージに癒されたり、雰囲気を感じたり感動したり、刺激によって得られる糧です。

Manosañcetanāhāra:心の思考に力を与える糧です。具体的には未来に対して抱く希望のことで、夢や希望(意欲)があれば、生きるエネルギーになります。

Viññāṇāhāra:識食:認識による滋養です。これは「承認欲」のようなものだと思います。「私は生きている」と実感できるのは、自分は他者から必要とされる存在だ、と感じた時です。
お互いが存在を確認し合う中で、励まされたり、勇気づけられて、共に生きていくという人間関係が成り立った時です。つまり自分を認識してくれる相手が存在しなければ、自分の存在は成立しません。

私たちはこのように、食べ物だけでなく、心地よい刺激や自分の欲望(都合)を拡大すること、存在が認められることをエネルギー源として生きているのです。この4種類のエネルギーを取り続けることで、生命が維持されています。

インドの伝統的医療「アーユルヴェーダ」でも、アーハーラは生命の源であり、心身の糧となるものです。ドーシャ・ダートゥ・マラを補充して支え、生命を安定させます。身体に影響を与えるだけでなく、心もそれに応じて機能します。私たちが毎日食べているものには、身体を健康にするものあれば、健康を害するものもあります。心も同じです。摂取するもので心が健全になったり、苦しんで不健全になったりするのです。

SN-3-12-752

"Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti, 
それが 何でも 苦しみは 出現
sabbaṃ āhārapaccayā;
すべて 滋養を縁にして
Āhārānaṃ nirodhena, 
滋養が 消滅するなら
natthi dukkhassa sambhavo.
ない 苦しみの 出現は

それが何であれ
苦しみが生じるのは
すべては糧を得た結果であり
糧を得なければ
苦痛も生じない。

解説

人間や動物は物質的な食料を糧として命を繋いでいますが、非物質的・精神的なエネルギー源も必要です。喜びをエネルギー源としてやる気が出たり、怒りをエネルギー源として、一念発起することもあります。いずれにせよ、外部から得た糧を刺激として、反応することでエネルギーが生じます。これが偏ると、「もっと私を喜ばせてほしい」「私を怒らせる存在はなくなって欲しい」と苦しみを生じます。

SN-3-12-753

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これが・禍いと 知り
dukkhaṃ āhārapaccayā;
苦しみは 糧を縁にして
Sabbāhāraṃ pariññāya, 
全ての・糧を 熟知して
sabbāhāramanissito.
全ての・糧に・無依者は

苦しみは糧から生じて
これが災いになると理解し
すべての糧に依存しない者は
すべての糧を熟知している。

解説

私たちには「好き嫌い」があります。子供の頃から「偏食しないで、何でもありがたく食べなさい」と教えられてきましたが、好きな食べ物もあれば、苦手な食べ物もあります。精神的な糧も同じです。好き嫌いなく何でもありのままに受け止めるのが理想的ですが、実際には食べ物以上に好き嫌いがあり、得る度に「わーいᐠ(∗ᵔᗜᵔ∗)ᐟ」「ゲゲッ( ー̀ н ー́ )」と反応しています。

SN-3-12-754

"Ārogyaṃ sammadaññāya, 
無病を 正しく・理解し
āsavānaṃ parikkhayā;
煩悩を 滅尽して
Saṅkhāya sevī dhammaṭṭho, 
考察して 従う ダンマに立つ者
saṅkhyaṃ nopeti vedagū"ti.
計算に 受けない 聖智の達人は・と

心の穢れを滅尽して
無病を正しく理解し
真理に依る者は
認識したものに従って
ありのままに受け止める
聖なる智慧者である。

解説

Ārogya無病健康)とは何でしょう? WHOでは「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と定義しています。

ここでの無病とは、Āhārā(糧)をテーマに語られているので、4種類の健全な糧による心身=健全な心身だと思います。肉体も健康で、心に汚れ(不健全な作用)がない「健全な心」の状態です。

(12) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう

Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti sabbaṃ iñjitapaccayāti, 
それが 何でも 苦しみは 存在 すべて 動き・縁となって
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Iñjitānaṃ tveva asesavirāganirodhā natthi dukkhassa sambhavoti, 
動転すること どんな・だけ ない・余り・離・制止 ない 苦しみ 存在
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

12.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

『それが何であれ、苦しみがあるならば、すべては心の動きが原因となって発生する』これが1つ目の観察です。

『何であれ、心を動かすのをやめて、止めてなくしてしまえば、苦しみも存在しない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

iñjita(心の動き)は、気分が上がる下がるイメージで解釈しました。心は嬉しいことがあると舞い上がり、嫌なことがあるとすぐに落ち込みます。テンションが高くなったり低くなったり、落ち着きないのです。

SN-3-12-755

"Yaṃ kiñci dukkhaṃ sambhoti, 
それが 何でも 苦しみは 出現
sabbaṃ iñjitapaccayā;
すべて 動きを縁にして
Iñjitānaṃ nirodhena, 
動かすことを 制止するなら
natthi dukkhassa sambhavo.
ない 苦しみの 出現は

それが何であれ
苦しみが生じるのは
すべては心が動いた結果であり
心を動かさなければ
苦痛も生じない。

解説

私たちの心は予想外のことに遭遇すると、すぐに動転します。体制が揺らぐことで、気分が揺れ動き心が不安定になります。平静さを失った状態です。

人は何か変化を感じると、反応して怒ったり不安になったりします。ポジティブな事態でも同じです。期待してワクワクしたり、嬉しくてウキウキしたり、落ち着かなくてソワソワしたりします。つまり心に感情が現れた時心は動くのです。

SN-3-12-756

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これが・禍いと 知り
dukkhaṃ iñjitapaccayā;
苦しみは 動きを縁にして
Tasmā hi ejaṃ vossajja, 
それ故 実に 動きを 捨てて
saṅkhāre uparundhiya;
反応を 抑止する
Anejo anupādāno, 
不動の 無・執着の
sato bhikkhu paribbaje"ti.
気づき  比丘は 遍歴するように・と

苦しみは心が動くから生じ
これが災いになると理解して
反応を止めることで
まさに心の動きを捨てるのです。
比丘は心を動かさず無執着で
気づきながら遍歴するように。

解説

ejā:動。ānejja:不動の。「心を動かさない」ということは、平静さを保つということです。平静とは「穏やかで、落ち着いた、静かな状態」です。心が苛立ったり、慌てたり、舞い上がったりしていない状態で、心のバランスを崩すような事象を体験しても、精神的に安定し、落ち着いている状態です。

こんな状態は「不快だ」と抗うことを選択するのは心です。こんな状態は、こんな状態以上でも以下でもありません。どんな現象に遭遇しても、その状態は永遠には続きません。永遠どころかすぐに変化します。それを不快と判断して怒りの感情に居続けることでもできるし、そのまま傍観することもできます。

人からなんと言われても、誉められてもなじられても、心に感情の波を立てないようにするのです。物事の成り行きを自分の力で変えようとせず、何もしないで見ていることは、その物事に関係のない(当事者ではない)立場で接する態度です。自分事として主観的に受け止めず、他人事として客観的に受け止めるということです。

ブッダが語った「苦しみが発生する原因」は、upadhi(制限)に始まり、avijjā(無明)>saṅkhāra(反応)>viññāṇa(意識)>phassa(接触)>vedanā(感覚)>taṇhā(渇望)>upādāna(執着)ārambha(開始)>āhāra(糧)>iñjita(心の動き)で終わりです。

(13) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? 
だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう
Nissitassa calitaṃ hotīti, 
依存する 動揺する 存在は
ayamekānupassanā. 
これ・1つ目の・随観
Anissito na calatīti, 
ない・依存 ない 動揺
ayaṃ dutiyānupassanā. 
これ・2つ目の・随観
Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā –
このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は

13.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)。

依存する人は怯える』これが1つ目の観察です。

依存しない人は怯えない』これが2つ目の観察です。

このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。 

解説

12カ条「 iñjita(iñjati)」と13カ条「calita(calati)」は、どちらも辞書では「動揺する・動く・揺れる」となっています。当サイトでは、「 iñjita 心が上下に動く」「calita 心が左右に揺れる=震える怯える」と解釈しました。「依存する人は怯える、依存しない人は怯えない」ということで、12カ条のポイントは「nissita(依存)」です。

SN-3-12-757

"Anissito na calati, 
ない・依存の者は ない 動揺が
nissito ca upādiyaṃ;
依存の者は しかし 執着する
Itthabhāvaññathābhāvaṃ, 
ここの状態から他の状態へ
saṃsāraṃ nātivattati.
輪廻を ない・克服

依存しない人は怯えないが
依存する人は執着がある。
今世の存在から
来世の存在となり
輪廻を克服できない。

解説

何かを頼りにして、心の支えとすることで、不安や怖れを解消して生きようとする人は、頼りにするものがなければ生きられないと思っています。だから頼りになりそうなものにすがって執着します。心の支えもほどほどであれば、何も問題はなく、お互いに尊重しあって、助け合う共助の精神となるはずです。

SN-3-12-758

"Etamādīnavaṃ ñatvā, 
これが・禍いと 知って
nissayesu mahabbhayaṃ;
依存には 大きな・恐怖
Anissito anupādāno, 
ない・依存 ない・執着
sato bhikkhu paribbaje"ti.
気づき 比丘は 遍歴するように・と

依存するのは
大きな怖れがあるからで
これが災いになると理解して
比丘は依存せず無執着で
気づきながら遍歴するように。

解説

依存するのは怖れがあるから」という結論に達しました。「怖れから何かに依存して、その結果、苦しみが発生する」という真理です。

依存とは「何かに心を奪われ、やめたくてもやめられない状態になること」です。特定の人や物、特定の行為などに愛や支持・保護・援助を求め、それにしがみつく状態です。何かに頼って甘えている状態なので、そもそも不安や怖れがなくなりません。