12. Dvayatānupassanāsuttaṃ 2種類の観察法③
ブッダが説く瞑想で観察すべき対象は「苦しみが発生する原因」です。そして「怖れがあるから、何かに依存して苦しみが発生することになる」と理解しました。では、依存せず無執着になった比丘は、この世でのあらゆる苦しみをクリアしたはずです。14からは瞑想で観察する対象が高次になります。
(14) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう Rūpehi, bhikkhave, arūpā santatarāti, 色・実に 比丘たちよ 無・色 より・穏やか ayamekānupassanā. これ・1つ目の・随観 Arūpehi nirodho santataroti, 無・色・実に 制止は より・穏やか ayaṃ dutiyānupassanā. これ・2つ目の・随観 Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā – このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は
14.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)…
『比丘たちよ、物体がない領域は、物体がある領域よりも穏やかだ』これが1つ目の観察です。
『制止の領域は、物体がない領域よりも穏やかだ』これが2つ目の観察です。
このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。
解説
世俗の概念を超越した先にある瞑想対象は、物質的領域(色界)と非物質的領域(無色界)、制止の領域(涅槃)です。
私たちが生きている世界(欲界)は、物質=身体(rūpa)・認識機能=心(citta)・心に生じる感情=心所(cetasika)の3つで構成されています。いろいろあるようでも究極的にはこの3つだけです。世界にはそれ以外何もありません。
心は通常、自分の心が入っている肉体(内側)と、自分を取り巻く物体(外側の世界)の2種類の物質を認識しますが、瞑想により、心の動揺がない状態になると、意識が外側に向かなくなり、通常の認識レベルを超えた認識体験が現れます。
まず、欲界(感覚のある領域)の領域を超越し、色界(ルーパ・ブラフマー界)を体験します。怒りや欲が全く起こらず、穏やかでほのぼのとした陽だまりで過ごすような状態です。この時、認識する物質的な要素は、自分の身体の一部だけです。目・耳・鼻・舌・身の五感は機能せず、外の物質は認識しません。わずかな物質=自分の身体の一部(rūpa)と、認識機能=心(citta)、そこに生じる感情=心所(cetasika)で構成されています。
さらに瞑想が深まると、物質的な要素と感覚を離れて無色界(アルーパ・ブラフマー界)を体験します。意識(心)だけがある状態で、側から見たらほぼ仮死状態です。空間的な要素もない精神世界で、静まりかえった境地です。
これより静まった状態が、制止の領域「涅槃(ニバーナ)」です。
色界と無色界の経験は、サマタ瞑想(集中瞑想)によって徹底的に集中することで到達するジャーナの体験です。瞑想を中断するとまた元に戻ります。しかし涅槃は、ほんの一瞬でも体験すれば、そこから戻ることはないそうです。
SN-3-12-759
"Ye ca rūpūpagā sattā, 彼らは また 色・経験 存在 ye ca arūpaṭṭhāyino; 彼らは また 無色・残るものは Nirodhaṃ appajānantā, 制止を ない・知るから āgantāro punabbhavaṃ. 来る人 再び・存在
色界を経験したり
無色界に未練がある人々は
制止を知らないので
再び存在として
生まれることになる。
解説
ジャーナの経験があり、色界や無色界を体験した人は、修行がかなり進んだ人です。欲も怒りも消えているので、天界に生まれたい、また人間に生まれていろいろやってみたい、などといった欲界への未練はありませんが、ジャーナで体験したブラフマー界への新たな執着が生まれる場合があります。この執着があるということが「制止(涅槃)」を知らないということだと思います。
SN-3-12-760
"Ye ca rūpe pariññāya, 彼らは しかし 色形を 了解後に arūpesu asaṇṭhitā; 無色界に対して 不・安定な Nirodhe ye vimuccanti, 制止において 彼らは 解放する te janā maccuhāyino"ti. そこで 人々は 死を・捨てた者・と
しかし色界を知り尽くした者は
無色界に安らぎはないと理解し
制止によって解脱する人々は
死んで生まれ変わることを
放棄した者である。
解説
制止とは何か? 心の汚れ(煩悩)をすべて(潜在意識下で眠っている汚れ anusaya kilesa)を消すことで、輪廻のエネルギー源を絶やすということだと思います。
(15) "Siyā aññenapi…pe… kathañca siyā? だろう 他の人々が・もし …略… 方法を・この だろう Yaṃ, bhikkhave, sadevakassa lokassa それは 比丘たちよ 天と共なる 領域に samārakassa sabrahmakassa sassamaṇabrāhmaṇiyā 悪と共なる ブラフマーと共なる バラモンと共なる pajāya sadevamanussāya idaṃ saccanti 生まれる 神や人間と共なる ここで 真実を upanijjhāyitaṃ tadamariyānaṃ etaṃ musāti 静観する 彼は・聖なる このように 偽りを yathābhūtaṃ sammappaññāya sudiṭṭhaṃ, ありのままに 正知 よく・見る ayamekānupassanā. これ・1つ目の・随観 Yaṃ , bhikkhave, sadevakassa…pe… それは 比丘たちよ 天と共なる …略… sadevamanussāya idaṃ musāti upanijjhāyitaṃ, 神や人間と共なる ここで 偽りを 静観する tadamariyānaṃ etaṃ saccanti 彼は・聖なる このように 真実を yathābhūtaṃ sammappaññāya sudiṭṭhaṃ, ありのままに 正知 よく・見る ayaṃ dutiyānupassanā. これ・2つ目の・随観 Evaṃ sammā…pe… athāparaṃ etadavoca satthā – このように 正しく …略… さらに・また これ・言う 師は
15.「では、どうすればいいのか?」と、もし…中略(質問する人々がいたならば、比丘たちよ、2種類の観察方法について、こう答えるべきです)…
比丘たちよ、それは天界や邪悪な界、ブラフマー界やバラモンの世界、神々や人間の世界において、その世界では真実だとされてきたことが、聖なる者たちは正しい智慧によって、本当は偽りであるとありのままに認識するのです。これが1つ目の観察です。
比丘たちよ、それは天界や邪悪な世界、ブラフマー界やバラモンの世界、神々や人間の世界において、その世界では偽りだとされてきたことが、聖なる者たちは正しい智慧によって、本当は真実であるとありのままに認識するのです。これが2つ目の観察です。
このように正しく……中略……さらにまた、師(ブッダ)はこう言いました。
解説
世間一般に真実だと思っていること=真理においては偽り、世間一般に偽りだと思っていること=真理においては真実ということです。つまり、世俗の私たちが真実だと認識していることはすべて、各々の感覚器官を通したオリジナルの認識なので、実際には宇宙的に偽りである、ということです。
SN-3-12-761
"Anattani attamāniṃ, 無・我に対して 我があると思う passa lokaṃ sadevakaṃ; 見よ 世界を 神を含む Niviṭṭhaṃ nāmarūpasmiṃ, 執着する 名と色形に idaṃ saccanti maññati. これは 真実である と思う
神を含む世界中の人々を
見なさい!
「私」など存在しないのに
「私が存在する」と思って
色形に名前をつけて
それを現実だと思い込んで
執着している。
解説
「私」って何でしょう?
人が一生のうちに出会う人の数は、約3万人とする統計があります。このうち学校や仕事などで一緒になる人は、およそ3,000人だそうです。その中で親しい会話を交わす相手は 300人、そのうち友達と呼べる関係になるのが 30人、親友は 3人 となっています。この数字は人生を80年と考えて、80年=3万日から導かれた1日に1人に出会うとする単なる計算式です。実際にはもっと少ないと感じる人も、多いと感じる人もいるでしょう。
ざっと自分のことを知っている人々の数を想像してみてください。世界の人口は約80億人ですから、「私のことを知っている人々」は奇跡の人々だと言えませんか? 世界の人々からすると、「私」はいないに等しいですよね。
そんな「私」のことを知っている人々の顔を、思い浮かべてみてください。毎日顔を合わせる人もいれば、子供の頃に会ったきりの人もいるでしょう。その人たちにとって「私」はどんな私でしょう?
3万人の出会いがあれば、3万人はそれぞれ勝手な印象を「私」に対して抱きます。決して同一の印象を持つことはあり得ません。感覚が違うからです。同じものを見ても、それぞれが抱く印象は全然違うのです。つまり「私」は各人がイメージする私であり、「私の印象」なのです。
SN-3-12-762
"Yena yena hi maññanti, ああだ こうだ 実に 思って tato taṃ hoti aññathā; その後 それは 存在 他の状態に Tañhi tassa musā hoti, だから 彼にとって 偽りの 存在 mosadhammañhi ittaraṃ. 虚偽の・現象は・実に 無常
ああだ、こうだと考えたところで
それはすぐに考えとは
違う状態になってしまう。
まさに常に変化し続ける
幻の現象だから
存在そのものが偽りなのだ。
解説
では「本当の私」はどんな私でしょう?
「私」がこう思われたいと思う「私のイメージ・印象」ではないでしょうか? しかもこう思われたい「私像」も相手ごとに変わっていませんか? 親としての「私」、子供としての「私」、友達の前での「私」、会社の同僚として上司として部下としての「私」などなど。結局、相手の数だけ、こう思われたい私像も変化していませんか? どれが本当の「私」でしょう?
物質も同じです。
例えば、私たちが「本」と呼ぶ物質も、書店に並んでいる時は「商品」であり、電球を交換する際に使えば「踏み台」であり、押し花を作る「重石」にもなり、「鍋敷」になったり、喧嘩で投げつければ「武器」にもなり、古本屋に持っていけば「売り物」になります。しかし本質は「インクが染み付いた紙束」で、「本」や「踏み台」といった名称は、その時々の働き・役割です。「本」ひとつとっても、その瞬間の外との関係(縁)によって、それ自体の性質(dhamma)が変わるのです。
人間も同じです。「私」が存在するのではなく、働き・役割があるだけです。私たちが現実だと思っているこの世のすべてが、固定化できない一過性の現象なのです。
SN-3-12-763
"Amosadhammaṃ nibbānaṃ, ない・偽りの・現象 涅槃は tadariyā saccato vidū; それを・聖者は 真実だと 知る Te ve saccābhisamayā, 彼らは 実に 真実を・理解 nicchātā parinibbutā"ti. 無欲 涅槃に至る・と
涅槃は妄想ではない
聖者はそれが真実だと知っている
彼らはまさに真実を理解して
無欲となり涅槃に至る。
解説
世界は、物質・心・心に生じる作用の3つで構成されています。この3つを超越することが、涅槃の体験です。世俗の領域を超えた周波数帯に入る感じでしょうか。
(16) "'Siyā aññenapi pariyāyena sammā dvayatānupassanā’ti, だろう 他の人々が・もし 理由を 2種類の・随観 と iti ce, bhikkhave, pucchitāro assu; どのように そして 比丘たちよ 問われた 実に 'siyā'tissu vacanīyā. だろう・君は・実に 答えるべき Kathañca siyā? 方法を・この だろう Yaṃ, bhikkhave, sadevakassa lokassa それは 比丘たちよ 天と共なる 領域に samārakassa sabrahmakassa sassamaṇabrāhmaṇiyā 悪と共なる ブラフマーと共なる バラモンと共なる pajāya sadevamanussāya idaṃ sukhanti upanijjhāyitaṃ, 生まれる 神や人間と共なる ここで 快楽を 静観する tadamariyānaṃ etaṃ dukkhanti 彼は・聖なる このように 苦しみを yathābhūtaṃ sammappaññāya sudiṭṭhaṃ, ありのままに 正知 よく・見る ayamekānupassanā . これ・1つ目の・随観 Yaṃ, bhikkhave, sadevakassa…pe… sadevamanussāya それは 比丘たちよ 天と共なる …略… 神や人間と共なる idaṃ dukkhanti upanijjhāyitaṃ ここで 苦しみを 静観する tadamariyānaṃ etaṃ sukhanti 彼は・聖なる このように 快楽を yathābhūtaṃ sammappaññāya sudiṭṭhaṃ, ありのままに 正知 よく・見る ayaṃ dutiyānupassanā. これ・2つ目の・随観 Evaṃ sammā dvayatānupassino kho, bhikkhave, このように 正しく 2種類・随観は 実に 比丘たちよ bhikkhuno appamattassa ātāpino pahitattassa viharato 比丘たちは 怠けないように 熱心に 自ら励んで 暮らす dvinnaṃ phalānaṃ aññataraṃ phalaṃ pāṭikaṅkhaṃ – 2つのことを 結果を 二者の 結果を 期待すべき diṭṭheva dhamme aññā, 見られた・ように ダンマを 了知し sati vā upādisese anāgāmitāti. 気づき 或は 生命・残余 不・還果 と Idamavoca bhagavā. こう・言った 世尊 Idaṃ vatvāna sugato athāparaṃ etadavoca satthā – こう 言った 善逝者は さらに・また これ・言う 師は
16. そして比丘たちよ、もし2種類の観察方法について、どのようにするのか、質問する人々がいたならば、君たちはこう答えるべきです。
比丘たちよ、それは天界や邪悪な界、ブラフマー界やバラモンの世界、神々や人間の世界において、その世界では快楽だとされてきたことが、聖なる者たちは正しい智慧によって、本当は苦しみであるとありのままに認識するのです。これが1つ目の観察です。
比丘たちよ、それは天界や邪悪な世界、ブラフマー界やバラモンの世界、神々や人間の世界において、その世界では苦しみだとされてきたことが、聖なる者たちは正しい智慧によって、本当は快楽であるとありのままに認識するのです。これが2つ目の観察です。
比丘たちよ、このように正しく2つを観察する比丘たちが、怠けずに熱心に自ら励んで生きるならば、2つの果報のうちのいずれか1つの果報が期待できる。完全に真理を了知するか、あるいはまだ、気づくべきことが残っているならば、アナーガーミー(この世には還らない)になるかだ」と、世尊はこのように告げました。
そして善逝者は、師(ブッダ)はこう仰ったと、次のように言いました。
SN-3-12-764
"Rūpā saddā rasā gandhā, 色形 音 味 匂い phassā dhammā ca kevalā; 触 現象 また 全部の Iṭṭhā kantā manāpā ca, 好ましい 愛する 心地快い と yāvatatthīti vuccati. 限り・その時・と 言われる
色形も音も味も匂いも
触感も現象もすべてが
心地快いと感じたものだけ
好ましい、愛しいと言う。
解説
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、身体に触れるもの、心に浮かぶもの、これらに対して「心地快い」と感じたものを、私たちは「好き」だと決定して受け入れます。
しかしこの「心地快い」と感じる感覚は単なる反応で、自分の意思で選択しているわけではありません。感覚は選択できないのです。ただ「快・不快・どちらでもない」のいずれかの感覚が自動的に生じるだけです。
SN-3-12-765
"Sadevakassa lokassa, 神々を含む 世界には ete vo sukhasammatā; これ こそ 快楽と考えられる Yattha cete nirujjhanti, 所へ もし・それらが 滅する taṃ nesaṃ dukkhasammataṃ. それは 彼らに 苦と・考えられる
神々を含む世界の人々は
これこそが快楽だと思っている。
もしそれらが減ってしまえば
それが苦しみだと考える。
解説
私たちは「心地快い」と感じる「好き」なものばかりが自分の周りにあって欲しい、「好き」なものがいつまでもなくならないで欲しい、と思っています。でも、どんなものも変化するので、そのままの変わらない状態=「好き」な状態ではいられません。仮に自分が大好きな人が24時間ずっと横にいたとしたら、必ず飽きてウザくなります。
私自身の「好き」なイメージも相手も変化しているので、どう考えたって無理なのです。それなのに、「好き」なものがそのまま変わらず、「私が好きだと感じる状態」を他者に維持して欲しいと願うのだから、必ず不満になるわけです。「ずっと好きだと思い続けなさいよ、私」なのです。相手に求めても、私の思いは変えられず、私の思いは変わり続けるのです。
このように冷静に考えてみれば、誰でもわかる当たり前のことが「真理」です。特別な修行をしなくても、気づけることなのです。
SN-3-12-766
"Sukhanti diṭṭhamariyehi, 快楽・と 見る・聖者たちは・実に sakkāyassuparodhanaṃ; 有する身体の・破壊を Paccanīkamidaṃ hoti, 反対に・これは 存在 sabbalokena passataṃ. すべての・世界 見方
聖なる者たちは
現存する身体の破壊を
快楽だと見なす。
これは全世界の人々とは
反対の見方である。
解説
難しいスッタですが、身体の破壊=身体感覚(五感)による認識を破壊することだと思います。
SN-3-12-767
"Yaṃ pare sukhato āhu, ことを 他が 快楽と 言う tadariyā āhu dukkhato; それを・聖者は 言う 苦しみと Yaṃ pare dukkhato āhu, ことを 他が 苦しみと 言う tadariyā sukhato vidū. それを・聖者は 快楽と 知る
聖者が苦しみだと言うことを
そうでない者は快楽だと言い
聖者が快楽だと知っていることを
そうでない者は苦しみだと言う。
解説
どんな楽しみも永遠に続くことはあり得ません。どんなに楽しくても慣れてしまえば退屈になり、もっとワクワクしたいとさらなる刺激を求めます。私たちは感覚に強く執着します。常に「気持ち快い感覚はないか」と捜し求めています。それが生命のエネルギー源だからです。
しかし、見たり聞いたり味わったりする感覚は、すべて「刺激=痛み」です。気づいていないだけで、感じる対象の量が大きくなれば「痛み」だと気づきます。強い光は目が痛くなり、大音響も耳が痛くなります。キツイ臭いに鼻がひん曲がり、甘すぎるものは頭が痛くなったり、塩辛いものは喉が痛くなったり、酸っぱ〜いものも舌が痛くなります。マッサージも強過ぎれば「痛い」し、そして心も強い刺激を受けるとズキズキ、チクチク痛みます。
あらゆる刺激が、度を超すと痛みになるのです。感じることは真理から見ると苦しみでしかないということです。
SN-3-12-768
"Passa dhammaṃ durājānaṃ, 見よ 真理を 難い・理解 sampamūḷhetthaviddasu; 混乱する・ここで・無知な者は Nivutānaṃ tamo hoti, 覆われた・ものには 闇が 存在 andhakāro apassataṃ. 暗黒は ない・見る
見なさい、
真理を理解できずに
混乱する無知な人々を
覆われた人々は闇の中で
暗闇では何も見えない
解説
私たちが認識している様々な現象は、実際にこの宇宙のすべてでしょうか? 少なくとも私たちが認識できない、見えないものや聞こえない音を、見たり聞いたりできる動物がいるのは確かです。この世も他の世も、私たちが認識できていないもので溢れているのではないでしょうか? 私たちが目耳鼻舌身でキャッチできる物質は、本当は地球上の極僅かなのかもしれません。
人間がリンゴを見る時、それをリンゴだと認識するためには、対象物(りんご)・光(rūpa)・感覚(vedanā)・知覚(saññā)の4つが必要です。4つ全部が揃って認識する心(viññāṇa)が生まれます。リンゴに光が当たり、その反射を感覚器官である目が刺激として感受して、物体の色・形・動き・距離感などの情報を解析して、リンゴだと認識します。他のことで頭がいっぱいであれば、リンゴが目に入っても、対象物・光・感覚だけが働いて知覚がないので「リンゴ」を認識しませんし、真っ暗闇でも、対象物・感覚・知覚だけなので、認識できません。
また、犬や蟻から見た場合は、どう見えるでしょう? 「リンゴ」ではないことだけは確かです。そう考えると私たちの周りに溢れる様々な物や現象が、果たして真実だと言えるでしょうか?
SN-3-12-769
"Satañca vivaṭaṃ hoti, 善の人々には・と 開いた 存在 āloko passatāmiva; 光は 見る・ごとく Santike na vijānanti, 近くに ない 認識する maggā dhammassa kovidā. 道を ダンマを 熟知する
まるで光を見るかのように
善なる人々には開かれている。
真理の道を理解しない人は
近くにいても見つけられない。
解説
私たちは日常、すぐに評価を下したり、防御や攻撃をしたり、落ち込んだり舞い上がったり、無意識のうちに自動的に反応しています。私たちはその自動反応に莫大なエネルギーを使い、心は思考や幻想の中を漂っています。
SN-3-12-770
"Bhavarāgaparetehi , 生存の・情欲・捉われた人々によって bhavasotānusāribhi; 生存の・流れに・従った人々によって Māradheyyānupannehi, マーラの領域に入った人々によって nāyaṃ dhammo susambudho. ない・この 真理は よく覚ることは
生存欲に捉われた人々
本能に従って
生存の流れにのる人々
マーラの領域に入った人々は
この真理を理解しない。
解説
心が反応することで、エネルギーが転回して生命の流れが発生します。真理を理解するためには、常識どころか人の生存本能を超越しなければなりません。
SN-3-12-771
"Ko nu aññatramariyehi, 誰が かどうか 他で・聖者による padaṃ sambuddhumarahati; 歩みを 正しく・覚る・値する Yaṃ padaṃ sammadaññāya, この 歩みを 正しく・覚った parinibbanti anāsavā"ti. 完全に・欲なき 穢れのない人々は と
歩みを正しく悟るに値する者が
聖者の他にいるだろうか。
この歩みを正しく悟った
穢れのない人々には
完全に欲がない。
とブッダは言いました。
解説
以上、ブッダが語った16カ条の「2種類の観察法」により、悟ることができる真理です。
あとがき
Idamavoca bhagavā. これは・言葉 世尊の Attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti. 心に適う 彼らの 比丘たち 世尊の 語れる 大いに喜んだ Imasmiṃ ca pana veyyākaraṇasmiṃ これらを そして また 解説を bhaññamāne saṭṭhimattānaṃ bhikkhūnaṃ 述べられた時に 60・人の 比丘たちの anupādāya āsavehi cittāni vimucciṃsūti. 無・執着 穢れ・実に 心は 解放された
これは世尊の言葉である。
比丘たちは世尊の語りに満足して大いに喜んだ。
この説明がなされた時、
60人の比丘たちの心は執着がなくなり、まさに穢れから解放された。
解説
「これは世尊の言葉である」とあることから、このスッタ集はブッダがこう言ったと他のアラハン(善逝者=勝手な予測ではサーリプッタ?)が語ったものです。第3章には、このようにsugata(善逝者)が語ったスッタがいくつかありました。最初は気づきませんでしたが、10.コーカーリカまで訳して気づきました。
Dvayatānupassanāsuttaṃ dvādasamaṃ niṭṭhitaṃ. 2種類・随観・スッタ 12番目 終わり
12. 2種類の観察法 終わり
要約リスト
Tassuddānaṃ – それ・結ぶ Saccaṃ upadhi avijjā ca, 真理 制限 無明 と saṅkhāre viññāṇapañcamaṃ; 反応 意識・5つの Phassavedaniyā taṇhā, 接触・感覚 渇望 upādānārambhaāhārā; 執着・開始・糧 Iñjitaṃ calitaṃ rūpaṃ, 動き 動揺 物質 saccaṃ dukkhena soḷasāti. 真実 苦しみについて 16 Mahāvaggo tatiyo niṭṭhito. 大きな章は 第3 終わり
- 真理
- 制限
- 無明
- 反応
- 意識(5つの認識)
- 接触
- 感覚
- 渇望
- 執着
- 開始(やる気)
- 糧
- 心の動き
- 依存(動揺)
- 物質
- 真実と偽り
- 苦と楽
解説
Uddāna(ウダーナ)は、各スッタ集の最後に、そのグループに含まれる経典のタイトルを、列記した要約リストです。特に重要なスッタ集に付随します。
ここに挙げられた16カ条は大変重要なブッダ の教えです。日々の生活の中で常に気づくように努めることが観察であり、修行です。坐っている時も歩いている時も、食べている時も話している時も、働いている時も横になっている時も、寝ている時も起きている時も、常に観察=洞察瞑想(ヴィパッサナー)なのです。
第3章「大きな章」 終わり
以上で第3章「大きな章」を終了します。続いては第4章「8つのこと」です。