第4章 8つのこと:9. マーガンディヤ 841〜846

9. Māgaṇḍiyasuttaṃ マーガンディヤ ①

このスッタ集は、マーガンディヤとブッダの対話です。マーガンディヤはブッダに、自分の美しい娘を嫁がせたいと申し出ましたが、ブッダはそれを受けず、また断らずに、マーガンディヤを納得させました。

マーガンディヤの話は、ダンマパダの14章「ブッダ」にも登場します。こちらにブッダとの出会いのエピソードがありますので、興味のある方はご覧ください。

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‘‘Disvāna taṇhaṃ aratiṃ ragañca, 
見て 渇望を 不快を 欲望を・と
nāhosi chando api methunasmiṃ; 
ない・存在 意欲 さえ 性交による
Kimevidaṃ muttakarīsapuṇṇaṃ, 
一体・何か 糞尿・満ちた
pādāpi naṃ samphusituṃ na icche’’.
足・さえ それの 触れる ない 願う

ブッダ:
タンハー、アラティ、ラーガを
見ても性欲どころか
意欲さえも起きなかった。
糞尿で満ちた袋に過ぎないものに
足さえも触れたくないのです。

解説

ブッダは、自分が悟りの最終段階に到達した直後に、マーラ(自身の煩悩の化身)の3人の美しい娘「タンハー(渇望)、アラティ(執着・嫌悪)、ラーガ(欲望)」たちに誘惑されたことを話し、「絶世の美女が誘惑したところで、渇望・執着・情欲がない者をどうやって誘惑することができるのか。排泄物(糞尿)をたたえた袋にすぎないものに、足さえ触れたくない」と言いました。

最後の「足さえ触れたくない」は、珍しいブッダの失言と捉えることができる言葉です。ブッダはマーガンディヤにこう述べて、マーガンディヤは最終的に真意を理解して納得しました。しかし、その場に一緒にいた娘自身は、ブッダのこの言葉をそのまま「足で触るのも嫌」と侮辱されたと感じ、深く傷つきブッダに憎悪を抱きます。のちにこの報いはブッダ 自身が償うこととなります。詳細はダンマパダ23章「ゾウ」をご覧ください。

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‘‘Etādisaṃ ce ratanaṃ na icchasi, 
このような もし 宝を ない 願う
nāriṃ narindehi bahūhi patthitaṃ;
女性を 人・王により 多くの 欲求された
Diṭṭhigataṃ sīlavataṃ nu jīvitaṃ, 
見解を 戒律・義務 かどうか 生命
bhavūpapattiñca vadesi kīdisaṃ’’.
生存・再生 説くか どのように

マーガンディヤ:
この宝石のような
多くの王が欲しがった女性を
もしあなたが望まないのなら
どのような考えで
道徳、義務、生き方、輪廻転生を
あなたは説いているのですか?

解説

マーガンティヤの娘は大変美しく、各地の王たちがこぞって妻に欲しがる宝石のような女性です。そんな娘に見向きもしないとは、一体どんな価値観で生きているのか、どうすればそんな達観ができるようになるのか、マーガンディヤはブッダの考えや道徳感、義務感、生き方、そして生まれ変わりについて、知りたくなったようです。

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‘‘Idaṃ vadāmīti na tassa hoti, 
これを 説くことは ない 彼には 存在
(māgaṇḍiyāti bhagavā) 
マーガンディヤよと ブッダは
Dhammesu niccheyya samuggahītaṃ;
ダンマについて 決定した 執着していると
Passañca diṭṭhīsu anuggahāya,
見て 見解を ない・固執する
Ajjhattasantiṃ pacinaṃ adassaṃ’’.
内の・寂静を 蓄積して 与えた

「マーガンディヤよ」とブッダ:
「これを説く」ということがないのです。
物事に執着する自分に
執着していると気づき
さまざまな考えに接しても
こだわらずに、その積み重ねで
心の内に平穏を見出したのです。

解説

マーガンディヤは欲望を超越してそのような境地にいたるためには「このようにすればいい」とか「このようにしないように」いう「答え」をブッダに期待していました。しかしブッダにはそもそも「このようにしなさい」という考え自体がないのです。あらゆる事物が無常であり、仮にブッダが「こうしなさい」と言った時点で、もうそれも変化しているからです。ただ、「あらゆる事物に対する執著を執著であると気づき、あらゆる偏見に接しても、固執することなく、自分の心を内観することで心の安らぎ(涅槃)を得た」と答えたのです。

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‘‘Vinicchayā yāni pakappitāni, 
決断が それらは 分別した
(iti māgaṇḍiyo)
と マーガンディヤは
Te ve munī brūsi anuggahāya;
それらに 実に 賢者 説く 固執しないで
Ajjhattasantīti yametamatthaṃ,
内なる寂静という その意味は
Kathaṃ nu dhīrehi paveditaṃ taṃ’’.
どのように 一体  賢者達は 説かれているか それは

マーガンディヤ:
判断や分別に
とらわれることはないと
賢者は説いていらっしゃいますが
その「内なる平穏」という概念を
賢者たちにはどのように
説明するのですか?

解説

マーガンディヤはブッダの「何にも依ることがないので説くものがそもそもない」という言葉を理解できていないようです。賢者は何かを説くものだという思い込みが、マーガンディヤには根強くあるようです。

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‘‘Na diṭṭhiyā na sutiyā na ñāṇena, 
ない 見解によって ない 見聞によって ない 知識によって
(māgaṇḍiyāti bhagavā)
マーガンディヤよと ブッダは
Sīlabbatenāpi na suddhimāha;
戒・掟によって ない 清浄を・説く
Adiṭṭhiyā assutiyā añāṇā,
非・見解によって 非・見聞によって 非・知識によって
Asīlatā abbatā nopi tena;
非・戒によって 非・掟によって ない・また それによって
Ete ca nissajja anuggahāya,
これらを また 放棄し ない・固執する
Santo anissāya bhavaṃ na jappe’’.
平静に ない・依存 生存を ない・願う

「マーガンディヤよ」とブッダ:
考えだとか伝統とか
知識とか戒律とか掟によって
心が浄化されると説くことはない。
また、考えがないとか
伝統がないとか無知とか
不徳とか非行によって
心が浄化されると説くこともない。
そういったことすべてを
放棄して執着せずに
平静に何にも依存せずに
生存を望むこともないのです。

解説

ブッダは「意味が伝わらなかったのだな」とすぐに理解して、マーガンディヤに同じことを噛み砕いて話します。

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‘‘No ce kira diṭṭhiyā na sutiyā na ñāṇena, 
ない もし と言う 見解によって ない 見聞によって ない 知識によって
(iti māgaṇḍiyo)
と マーガンディヤは
Sīlabbatenāpi na suddhimāha;
戒・掟によって ない 清浄を・説く
Adiṭṭhiyā assutiyā añāṇā,
非・見解によって 非・見聞によって 非・知識によって
Asīlatā abbatā nopi tena;
非・戒によって 非・掟によって ない・また それによって
Maññāmahaṃ momuhameva dhammaṃ,
私は思う 困惑させる ダンマは
Diṭṭhiyā eke paccenti suddhiṃ’’.
見解によって ある人々は 信じている 清浄を

マーガンディヤ:
もし、考えだとか伝統とか
知識とか戒律とか掟によって
心が浄化されると
説くことはない。
また、考えがないとか
伝統がないとか無知とか
不徳とか非行によって
心が浄化されると説くこともない、
というのなら
それは混乱させるダンマの教えだと
私は思います
ある人々は考え方で
浄化されると信じています。

解説

マーガンディヤは、考えや伝統、知識や徳行にこだわっています。常に正しいか正しくないか、プラスかマイナスか、陰か陽かという、二極以外の道はないと思い込んでいます。だからそれらによっても、あるいはそれらによらなくても、浄化されないと言われて、戸惑っています。

あらゆるものが、二極のどちらかに偏ると、そのバランスを保とうとするエネルギーが働きます。それが自然の法則です。ブッダが説く道は、そのどちらでもない「中道」なのです。