10. Purābhedasuttaṃ 死ぬ前に ①
第4章の10番目のテーマは「Purābheda:壊れる(死ぬ)前に」と称して、死ぬ前にすべきこと「平穏に生きる覚醒者の特徴」がブッダによって13カ条語られています。
ゴータマ・ブッダに対する最初の質問は、誰の発言かはここでは明確ではありませんが、多くの神々が集まる大集会でブッダ説法をしていた際に、神々に「この肉体が壊れる(死ぬ)前に何をすべきか」という心が生じたことにブッダは気づきました。しかしどの神々もその質問をしないのでブッダは化身を作って、その化身にこの質問させたそうです。
SN-4-10-854
‘‘Kathaṃdassī kathaṃsīlo, いかなる・見解で いかなる・道徳で upasantoti vuccati; 静まる 言われる Taṃ me gotama pabrūhi, それを 私に ゴータマよ 話して下さい pucchito uttamaṃ naraṃ’’. 尋ねます 最上の 人について
どのような見解を持ち
どのような振る舞いの者が
「平静だ」と言われるのでしょうか?
覚醒した人についてお尋ねします
ゴータマよ、私に教えてください。
解説
kathaṃsīlo:「いかなるシーラの人」という意味です。sīla(シーラ)は、戒律のことですが、これは規則ということではなく、自分を律するために習慣的に行なっていることという意味です。戒律や道徳というと、守るべき規約というふうにとらえがちですが、本来は「こうしなさい、という決まり」があるのではなく、自分で自分を律するための心得なのです。ブッダは戒律などを作ることに反対でしたが、教えを広めるに従って、信徒として共に行動する者たちの集団生活の指針として、止むを得ず定めたのが「sīla(シーラ)戒律」です。他者の行動を抑制するものではなく、あくまで自身を律するための指針に過ぎないのです。
SN-4-10-855
‘‘Vītataṇho purā bhedā, 離れ・渇望を 前に 壊れる(死ぬ) (iti bhagavā) と ブッダは pubbamantamanissito; 過去の・目的・ない・依存は Vemajjhe nupasaṅkheyyo, 中心 ない・準備する tassa natthi purakkhataṃ. 彼には ない・存在が 前に出る
ブッダ:
死ぬ前に渇望を離れ
過去にこだわらず
今ここで、あれこれしようとはせず
尊敬とか名誉とか
目立つ存在ではない。
解説
覚醒した人は、一言で言えば「死ぬ前にtaṇhā タンハー(渇望)から離れた人」です。taṇhā は現状で満足せずに「もっと〜したい」と求める心です。すべての苦しみ(duḥkha ドゥッカ)の原因であり、この心から欲求が生まれます。
また、taṇhā は人が生きている限り、ずっと流れ続ける意識であり、反応し続ける心の作用です。この渇望のエネルギーが次の生命を生み出す源となり、輪廻転生のエネルギー源です。
人は、好きな過去や嫌な過去を思い出しては、「あの時もっと〜していたら」とか「今度はもっと〜しよう」と考えては落ち着き、また考えては落ち着き、を日々繰り返しています。また、未来に思いをはせては不安になったり、期待して夢見たりします。
何かが起きるたびに、それについて過去と未来で分析しようとします。それが生きるエネルギー源「活力」だからです。人の心は、常に今ここにはいないのです。過去に未来にと走り回って、エネルギーを確保するのに忙しいのです。
覚醒した人は、過去の記憶を想起して、そこに自分の存在価値を見出したり、未来に対して不安や期待を抱いて、それに備えることに現在を費やしたりしません。そしてpurakkhata:「前に出す、名誉を与える、尊敬される」特別な存在ではありません。ただ単なる存在、他の存在と同様にただそこにいる存在でしかない、ということです。
SN-4-10-856
‘‘Akkodhano asantāsī, ない・怒り ない・怖れ avikatthī akukkuco; ない・自慢 ない・後悔 Mantabhāṇī anuddhato, 賢明に語る ない・高揚する sa ve vācāyato muni. 彼は 実に 言葉を・抑制する 覚醒者
怒りがなく怯えのない
自慢しない後悔しない
賢明に語り落ち着いた
まさに言葉を制御した覚醒者だ
解説
kodha(コーダ 激怒)は、怒り(dosa ドーサ)の一種です。目の前にある物事に対して「嫌だ」と反対的な態度をとるエネルギーです。他者に対して「嫌だ」と反発する外に向かう怒りと、自分自身に不平不満を感じる内に向かう怒りがあります。
santāsa(サンターサ 怖れ)は、怖れ慄き、震える状態です。絶体絶命の状況で「死ぬかもしれない」という心です。
vikatthi(ヴィカッティ 自惚れ)は、他者と自分を比較して自分の優位を誇ることです。怒りには常に「自分は正しい」という自惚れがついて回ります。
kukkuca(ククッチャ 後悔)も、怒り(dosa ドーサ)の一種です。決定の結果が好ましくなかったため、過去に別の決定をしたことを願う心です。
mantabhāṇī(マンタバーニー 賢明に語る)は、よく考えて、自分の主観を交えずに事実のみを淡々と語ることです。自分の言葉で他者を傷つけることがないように配慮し、慈しみの心をもって語ることです。
anuddhata(アヌッダータ うわつく)とは、そわそわせず、心が高ぶらずに、落ち着いていることです。
vācāyata(ヴァーカーヤタ 言葉を慎しむ)とは、言葉に関する悪行為(嘘、陰口・悪口、きつい言葉、噂話、無駄話)をしないことです。
SN-4-10-857
‘‘Nirāsatti anāgate, ない・執着が 未来に atītaṃ nānusocati; 過去に ない・嘆く Vivekadassī phassesu, 離れ・見ている 接触において diṭṭhīsu ca na nīyati. 見解において と ない 導かれる
執着がなく
未来への不安も
過去を悔やむこともなく
刺激によって触発される感覚を
思考につられることなく
切り離して見ている
解説
「刺激によって触発される感覚を」とは、何か物事が起こるたびに刺激される心の感覚のことです。私たちが体験するあらゆる物事は、6つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・体・心)に何らかの外部から、あるいは心の内からの phassa(パッサ 接触)があることで生じます。
何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりすると、人は好きとか嫌いとか感覚を感じます。あるいは、心に過去や未来が浮かんで、嬉しいとか嫌だとか感覚を感じます。この時に覚醒した人は、主観的な感情(過去の経験に基づいた判断)を一切交えずに、感覚的な接触を、一歩離れて経験するとしています。切り離して、ありのままに見ることができるのです。覚醒した人には自己・自我がないので、自分が体験するすべての物事を、人ごとのようにありのままの感覚として、空の雲を見るように見ているのです。
ブッダの弟子のマハーカッサパは、歩いていて突然後ろから棒で殴られたときにも、よろけながらも振り返りもせず、何事もなかったようにそのまま歩き続けたそうです。
SN-4-10-858
‘‘Patilīno akuhako, 控えめで ない・騙す apihālu amaccharī; ない・欲張り ない・物惜しみ Appagabbho ajeguccho, ない・傲慢 ない・嫌われる pesuṇeyye ca no yuto. 中傷に と ない 関わる
控えめでごまかさず
欲張らずケチらず
横柄ではなく嫌われない
誹謗中傷には関わらない。
解説
誹謗中傷とは、誹謗(そしること。悪口を言うこと)+中傷(根拠のないことを言い、他人の名誉を傷つけること)です。
SN-4-10-859
‘‘Sātiyesu anassāvī, 好ましいものに ない・浸る atimāne ca no yuto; 過慢に と ない 関わる Saṇho ca paṭibhānavā, 温和で と 機知に富む na saddho na virajjati. ない 信心が ない 不愉快
好ましいものに浸らず
うぬぼれない
温和で機知に富み
信心もなく
不愉快にならない
解説
「機知に富む」とは、「機知」は場に応じて当意即妙な発言や対応ができる力のことで「頭の回転が速い」ことです。「信心もなく」とは、自分で確かめもせずに人が言ったことを信じたりすることなく、すべての物事に対して、常に偏見を持つことなく、ありのままに事実を確認して冷静に納得するという意味です。最後の「不愉快にならない」は今まで出てこなかったフレーズです。当たり前ですが、「不愉快にならない」のは、特に身内の前では至難の技なのです。
SN-4-10-860
‘‘Lābhakamyā na sikkhati, 利得のために ない 学ぶ alābhe ca na kuppati; 利得ないために と ない 乱れる Aviruddho ca taṇhāya, 逆らわない と 渇望によって rasesu nānugijjhati. 味において ない・貪る
何かを得るために学ぶことはなく
何かを得られなくてもガッカリせず
思い通りにならなくても
抵抗することはなく
食にこだわりもない
解説
kuppati:怒る・乱れる・混乱に陥る。私たちは「生涯学習」を掲げては自分磨きに精を出し、何かが得られないとガッカリしたり、怒ったりします。
心地よい気分にさせてくれる物や、感覚的、心的な喜び、心的な喜び(理想・意見・信念などに対する欲求と愛着)、承認されたい、と渇望(kāmataṇhā カーマタンハー)し、好きなものが、ずっとなくならないで欲しいと渇望(bhavataṇhā バーヴァタンハー)し、不愉快な経験はしたくないと渇望(vibhavataṇhā ヴィバーヴァタンハー)するのです。
つまり「自分の思い通りにしたい」のです。思い通りになることもあるでしょうが、ならないこともたくさんあります。すべてを思い通りにしたいと思えば、自然に逆らうこととなり、そこに対立が生まれます。それが duḥkha(ドッカ 苦しみ)になります。