第4章 8つのこと:14. 速やかにやるべきこと 921〜926

14. Tuvaṭakasuttaṃ 速やかにやるべきこと ①

第4章「8つのこと」14番目のスッタ集は「tuvaṭaka迅速」がテーマです。

何を迅速に行うべきなのでしょう? 「無常迅速」という言葉があります。人の世の移り変りが極めて速いこと、万物の転変がきわまりないことを示す言葉で、人の死はいつ訪れるかわからないことを示唆しています。

人の死は思いがけず早くやってきます。私たちは何を速やかに行うべきなのか。このスッタ集では、解脱涅槃に至るために修行する出家修行者は、何をすべきか、何を避けるべきか、が具体的に説明されています。

SN-4-14-921

‘‘Pucchāmi taṃ ādiccabandhu, 
私は尋ねます あなたに 太陽の親族
vivekaṃ santipadañca mahesi; 
隔離を 寂静の境地を・と 偉大な聖者よ
Kathaṃ disvā nibbāti bhikkhu, 
何を 見て 涅槃に至る 出家者は
anupādiyāno lokasmiṃ kiñci’’.
ない・執着して 世において 何ものも

太陽の親族である
偉大なる聖者よ、
隠遁と平和の境地について
お尋ねします。
出家者はどのような見方で
涅槃に至って
世間の何ものにも
執着しなくなるのですか?

解説

ādiccabandhu:太陽の親族=日種族のこと。ブッダの一族であった釈迦族は日種でした。古代インドの王家は、ほとんどが日種と月種のどちらかの系統に分類されていました。

nibbāti:消滅すること=涅槃に至ること=解脱

SN-4-14-922

‘‘Mūlaṃ papañcasaṅkhāya,
根源を 妄想・と呼ばれる・ものの
 (iti bhagavā)
と、ブッダ
Mantā asmīti sabbamuparundhe;
智慧によって 私は存在・を 一切すべて・破壊するように
Yā kāci taṇhā ajjhattaṃ,
それら どんな 渇望も 内側の 
Tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
それらを 律する 常に 気づいて 学ぶように

ブッダ:
妄想の元凶である
「私」という概念を
智慧によってすべて完全に
断ち切るようにしなさい。
心に生じるどんな渇望にも
常に気づいて律することを
学ぶようにしなさい。

解説

心に浮かぶあらゆることは、良くも悪くもすべてが「」を中心に作り出した「捏造」です。外からの刺激体験したことに対して、人はそのままインプットするのではなく、個人的な思いを加えて再構築し、自分に都合よく捏造します。

悩み苦しんでいるとき、その苦しみは「嫌いな人がいる、嫌な人の失礼な言葉がある、馬鹿にされる私がいる、私は怒っている、という「存在する・いる・ある」という概念で生まれるのです。かといって苦しまないために「その人はいない、私は怒っていない」と思うことも、捏造でしかありません。「ない」という概念は、実際にはないではないのです。「あって欲しいものがない」から、「ない」と騒いでいるだけなのです。

SN-4-14-923

‘Yaṃ kiñci dhammamabhijaññā, 
何事も 何でも ダンマ・認知しなさい
ajjhattaṃ athavāpi bahiddhā;
内面に あるいは・また 外面に
Na tena thāmaṃ kubbetha, 
ない それによって 力を見せる 作る
na hi sā nibbuti sataṃ vuttā.
ない 実に それは 涅槃で 正念者の 説く

あらゆる道理を
内側から外側から
ありのままに知りなさい。
しかし、それによって
過信することがないように。
それは正しい気づきのある人が
説く涅槃ではないのだから。

解説

内側は自分の内側の作用、つまり心の動き、感覚や感情です。外側は自分の外側からの刺激、自分を取り巻くあらゆるものです。

SN-4-14-924

‘‘Seyyo na tena maññeyya, 
より良い ない それによって 思う・ように
nīceyyo athavāpi sarikkho;
より劣ると あるいは・また 同様の
Phuṭṭho anekarūpehi, 
接触する 多数の・光景において
nātumānaṃ vikappayaṃ tiṭṭhe.
ない・自己において 思考を超える いるように

それによって優れているとか
劣っている、あるいは同等だ
と思ったりしないように。
多くの事象にあっても
自分の解釈を加えないこと。

解説

「他者が自分より優れている」と思うと、嫉妬や怒りが生れてくる。「自分が他者より優れている」と思うと、自信過剰になり失敗してしまうのですが、そもそも「どちらかが優れている」という根拠がないのです。勝手にそう感じて判断しているだけです。賛同者がいると思っても、そう自分が受け止めたに過ぎないのです。

人はさまざまなことを、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、感じたりした時に、自分の解釈・考えを付け加えています。外からインプットされた情報に過ぎないものを、自身の内側に取り込む際に「自分の解釈(過去の記憶を元にした情報)」を付け加えることによって、「私の情報としてアウトプットしています。

この「私の情報」に賛同したり、共感する人がいると、承認欲が満たされて「私は優れている」と安心します。認められた「」は、自分が存在する価値を感じて安心し、心が一時的に穏やかになり安定するのです。しかし根本的に穏やかになったわけではないので、すぐにまた不安になり、認めてもらいたくなります。

また、「私の情報」に反対したり、批判する人がいると、敵意や嫌悪が生じて「あいつは劣っている」と思ったり、逆に自信をなくして「私は劣っている」と惨めに感じ、嫉妬の感情が生じたりします。どちらも「怒り」です。

そして「私の情報」と「同じだ」という思いも同様です。「同じ」と判断することで、安心を得たいという心に「他者との比較」があるからです。実際に優れているかどうかは問題ではなく、比較することで「他と自分」という概念が生まれることが問題なのです。「他と自分」と分けて意識することで、この世に分離が生じるからです。

SN-4-14-925

‘‘Ajjhattamevupasame, 
内側に・こそ・寂静
na aññato bhikkhu santimeseyya;
ない 他に 出家者は 寂静を・求める
Ajjhattaṃ upasantassa, 
内側に 寂静の人には
natthi attā kuto nirattā vā.
ない・存在 取れる いかなる理由で 捨てる あるいは

出家者は自身の内が
平穏であればよい
外に安らぎを求めないように。
自身の内が平穏であれば
何かを求める自我は
存在しないのだから
捨てるものもない。

解説

attā(attan):取れる・自我 nirattā(nir-attan):捨てる・非自我。心の内が平穏になった人=涅槃に至った人は、もはや何かを望んだり欲しいと求めることはないのだから、捨てるものもない、ということです。つまり、何かを求める本体である自我が存在しない「非自我」なのだから、という意味です。

SN-4-14-926

‘‘Majjhe yathā samuddassa, 
中では ように 海の
ūmi no jāyatī ṭhito hoti;
波が ない 生まれる 立つ 存在
Evaṃ ṭhito anejassa, 
そのように 立つ 不動のものとして
ussadaṃ bhikkhu na kareyya kuhiñci’’.
増勢を 出家者は ない 行うことは どこでも

海の中では波が立たず
波が起きないように、
出家者は心を動かさずに
どこであっても
心が波立つことがないように。

解説

海の波」は、自然界における波動現象のひとつで、音、光、電磁波と同じ振動です。ブッダ は、「あるゆるものの根源は『振動=波』と『燃焼=エネルギー』である」と言っています。心にも同様に揺れて波が立ちます。「感情の波」です。

このスッタでのブッダの教えは「心に波を立てないように」ということですが、ここで注意したいのは、心の表面では波風立てないようにしていても、心の奥底では腹ワタが煮えくり返っていることが往々にしてある、ということです。