15. Attadaṇḍasuttaṃ 暴力 ②
暴力についての続きです。
SN-4-15-947
‘‘Sacco siyā appagabbho, 真実は だろう 控えめで amāyo rittapesuṇo; 誠実で 嘘がない Akkodhano lobhapāpaṃ, 怒らない 欲に・悪に vevicchaṃ vitare muni. 私の貪欲を 除去する 理解する
真実は誠実で嘘がなく
謙虚なものなのです。
欲や嫌悪に怒りをぶつけず
「私のもの」をなくすことで
気づくものです。
解説
vevicchaṃ vitare「私の貪欲を捨てる」=「私のもの」を捨てること、と訳しましたが、最初は「利己心を捨てること」と訳していました。
利己とは「自分の利益だけを中心に考え、他人の立場などを考えないこと」です。「利己的ではなく利他的であれ」というのは、あちこちの宗教で聞く常套句です。もちろんその通りなのですが、S.N.ゴエンカ氏はちょっと違った切り口で語っています。
「私はヴィパッサナーの生徒一人ひとりに、利己的になってほしいと思っています。『利己的であれ』というのは、ブッダの教えです。ただし、利己的、つまり自己の利益になることとは何なのかを理解しなければなりません。いま、人々は自分にとっての本当の利益がどこにあるのかわからずに、(環境問題や紛争などで)自分を傷つけています。まず自分に対して思いやりを持つことが必要なのです。ですから、正しい意味で利己的であってほしいと思います」
この言葉を思い出して、このスッタで「利己心を捨てること」と訳しては誤解を招くと思い、最終的に「『私のもの』を捨てること」にしました。
SN-4-15-948
‘‘Niddaṃ tandiṃ sahe thīnaṃ, 睡眠を 怠けを 打ち勝つ 無気力を pamādena na saṃvase; 勝手気ままに ない 同居する Atimāne na tiṭṭheyya, おごりに ない 住むように nibbānamanaso naro. 涅槃に・向かう・心 人は
眠気や怠けに負けず
無気力にならずに
規則正しい生活をしなさい。
涅槃に心を向けた人は
調子に乗らずに生きるように。
解説
日本の民話には『三年寝太郎』というのがあります。三年三ヶ月、寝転んで何も仕事をしなかった寝太郎が、突然起き出して巨石を動かし、川の水を田畑に引いて、干ばつに苦しむ村が救われる、という内容です。寝太郎は何もしなかったのではなく、どうしたら村を干ばつから救うことができるかを考えていたのです。
しかし涅槃に向かう場合は、ゴロゴロ寝転んでいたのでは修行はできません。規則正しい生活の上に修行は完成します。瞑想は寝たままでもできそうだと思うかもしれませんが、瞑想は半睡眠状態なので、横になって瞑想すると、あっという間に深い眠りに落ちてしまいます。潜在意識の天下です。深い眠りについている間は、心の浄化はできません。
修行を怠けたり、不精していては、浄化の過程が始まるような集中力と精神統一は発揮できません。そもそもやる気がなくては、心の浄化はできません。勝手気ままなに、傲慢で我がままに生きていては、他者の言動を自身に素直に反映させて学ぶことができず、やはり修行は進みません。
SN-4-15-949
‘‘Mosavajje na nīyetha, 偽りに ない 引導される rūpe snehaṃ na kubbaye; 形態に 愛着を ない 為すように Mānañca parijāneyya, 慢心を・そして 正確に知り sāhasā virato care. 暴力から 離れて 行くように
間違った見方、考え方に
偏ることなく
形あるものに
執着しないように。
慢心を知り尽くして
暴力を避けて行くように。
解説
私たちが自分を重要視するとき、そこには自惚れやプライドがあります。これが「Māna(マーナ)慢心」です。
自分が他の誰かよりも優れている(優越感)、同じである(安心感)、あるいは劣っている(劣等感)と考えるとき、自惚れが生じています。自分が他よりも優れていると考えるときだけ、自惚れがあると思うかもしれませんが、そうではありません。どんな形であれ、他者と自分を比較しながら自分を重要視すること、それが「自惚れ=慢心」です。
この自惚れ=慢心は、全部で9種類あります。「自分より優れた人を、自分より下に見る、自分と同等に見る、自分より上に見る」「自分と同等の人を、自分より下に見る、自分と同等に見る、自分より上に見る」「自分より劣る人を、自分より下に見る、自分と同等に見る、自分より上に見る」の9つです。
この9つを常に心に留めて、自分の心に慢心が生じたら、それに気づいて観察しなさい、ということです。
どんなことでも初めての時には、何も知らなくて謙虚な姿勢でいたのに、いつの間にか「私は知っている」「私は他の人よりもできる」と思うようになります。慣れることは、生きる上で大切なことですが、恐ろしいことでもあるようです。
SN-4-15-950
‘‘Purāṇaṃ nābhinandeyya, 古いを ない・喜ぶように nave khantiṃ na kubbaye; 新しきに 希望を ない 為すように Hiyyamāne na soceyya, 衰えに ない 悲しむように ākāsaṃ na sito siyā. 引きつけるものに ない 依存する あるように
過去を懐かしんだり
未来に希望を抱かないように。
衰えを嘆くことなく
惹かれるものに
囚われることのないように。
解説
「古い」と「新しい」は、過去と現在を意味していると解釈しました。惹かれるもの=6つの感覚を引きつけるものです。
SN-4-15-951
‘Gedhaṃ brūmi mahoghoti, 執着を 私は説く 大きな・流れと ājavaṃ brūmi jappanaṃ; 吸引を 私は説く 熱望を Ārammaṇaṃ pakappanaṃ, 所縁を 先に・固定する kāmapaṅko duraccayo. 欲望の・泥は 超えるのは困難
執着は激流だと私は説く。
渇望は吸引力だと私は説く。
感覚の対象は固定観念で
欲望の泥沼であり
克服するのが困難です。
解説
Ārammaṇaṃ:心が認識する対象となるもの。6つの感覚(見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる・感じる)の対象のことです。最初の2つ、執着と渇望は誰にでも共通する生存本能に基づく心の動きですが、その原因である感覚の対象に対する反応は、人それぞれ違います。
同じ音を聞いても、それを好きな人もいれば、嫌いな人もいます。6つの感覚器官を通して私たちが感じる感覚は、それぞれの固定観念(先入観・偏見)のフィルターを通して認識されます。所詮、自己満足の欲望でしかないのです。
SN-4-15-952
‘‘Saccā avokkamma muni, 真実から ない・逸脱する 覚醒者は thale tiṭṭhati brāhmaṇo; 陸に 立つ バラモンは Sabbaṃ so paṭinissajja, 一切を 彼は 捨てて sa ve santoti vuccati. 彼は 実に 寂静の人と 言われる
真理の道から外れない
覚醒者である
バラモンは大地に立つ。
すべてを放棄して
まさに穏やかな人と呼ばれる。
解説
覚醒したバラモンは、激流や泥沼でもがくことなく、陸地に上がって立つっているという意味です。
SN-4-15-953
‘‘Sa ve vidvā sa vedagū, 彼は 実に 知った人 彼は 明智者 ñatvā dhammaṃ anissito; 知って ダンマを ない・とらわれる Sammā so loke iriyāno, 正しく 彼は この世で 行動する na pihetīdha kassaci. ない 羨む・ここで 誰かを
彼はまさに悟った人で
智慧者であり真理を理解して
とらわれるものはない。
この世で正しく振る舞い
誰かを羨んだりはしない。
解説
悟った人は真理を理解しているので、何かに束縛されることはありません。自然に正しい行いとなり、自分と誰かを比較しません。