13. Udayamāṇavapucchā ウダヤ青年の質問
ウダヤ尊者の質問は、瞑想修行における具体的なものです。ブッダがここで語られていることは「4つの聖なる真理」についてです。
SN-5-13-1111
"Jhāyiṃ virajamāsīnaṃ, 瞑想者に 穢れのない・坐る (iccāyasmā udayo) と尊者 ウダヤは katakiccaṃ anāsavaṃ; 義務を果たし ない・邪念の Pāraguṃ sabbadhammānaṃ, 彼岸を渡った人 一切の・ダンマに・精通する atthi pañhena āgamaṃ; ある 質問 やって来た Aññāvimokkhaṃ pabrūhi, 了知による・解脱を 説いてください avijjāya pabhedanaṃ". 無智の 破壊を
ウダヤ:
穢れのない心で坐る瞑想者に、
為すべきことを果たし
邪念がなく
すべての真理に精通して
彼岸を渡ったお方に
私は質問を持って参りました。
正しい理解による解脱を
無智の破壊について
教えてください。
解説
avijjā(アヴィッジャー)無智(無明)。無知とは少し違います。無知は「知恵・知識がない」という意味で、無智は「真理の智慧がない」ということです。知恵は理解によって得るものですが、智慧は気づくものです。知恵は思いつき、智慧はひらめきです。
私たちは生まれてからずっと、自分が属する社会の知恵を蓄え続けています。家庭、学校、会社、健康、衣食住、機械、環境、動植物などなど、あらゆる情報を知識として蓄えて、知識があるかないかで優劣が決まったり、知識が多いほど社会的影響力がある存在として、有利に生きられる、と私たちは思っています。
だから、ただ坐って心を内観する瞑想よりも、スマホから次々と新着情報を得る方が、知恵がついたと安心できるのです。しかし、それはごく狭い世界でしか通用しない偏った知恵です。私たちの国で通用する正義が、他の国では通用しないことからも、それは明らかです。私の常識はあなたの非常識なのです。
この知恵が私たちを智慧から遠ざけています。
自分の外の世界に起きることは、自分の心の内面の現れです。逆に心を内観すると、外の世界(宇宙)が理解できるようになります。つまり各人の純粋な直感・ひらめき。これが智慧ではないでしょうか。
SN-5-13-1112
"Pahānaṃ kāmacchandānaṃ, 放棄 快楽の欲求を (udayāti bhagavā) ウダヤよ とブッダ domanassāna cūbhayaṃ; 悩み そして・両方を Thinassa ca panūdanaṃ, 心の沈滞 さらに 排除 kukkuccānaṃ nivāraṇaṃ. 後悔 防ぐ
ブッダ:
ウダヤよ、
楽しみたいという欲と
嫌だという悩みの両方を捨て
さらに後悔しないようにして
心の沈滞を防ぎなさい。
解説
「4つの聖なる真理」の「1.苦しみの真理」についての教えです。
「快楽への欲 kāmacchanda」は、単なる好きからはじまって「好きなものをずっと自分のものにしたい」という執着につながり、渇望となります。
「悩み domanassa」は、単なる嫌いからはじまって、「嫌なものを自分から遠ざけたい」とあれこれと抗って苦しみ、心のエネルギーを奪います。
そして何かを「後悔 kukkucca」する時、人の心は過去のその時点に停滞して活動を停止しています。「心の沈滞 thinassa」です。
後悔しても現実は変わりません。失敗のままです。何かに失敗しても、明るい心で素直に失敗を認めて、次に生かせばいいだけです。正当化したり、誤魔化したり、懺悔したり、反省する必要もないのです。学びとして感謝して、進んで行けばいいのです。後悔についてはこちら
SN-5-13-1113
"Upekkhāsatisaṃsuddhaṃ, 平静さ・気づき・純粋さ dhammatakkapurejavaṃ; ダンマの・考え方・先行される Aññāvimokkhaṃ pabrūmi, 了知による・解脱 説く avijjāya pabhedanaṃ". 無智の 破壊を
ブッダ:
平静さと気づきと純粋さは
真理の考え方によって導かれる。
これが無智の破壊であり
悟りによる解脱だと、私は説く。
解説
「dhammatakka(ダンマタッカ)」とは「真理の考え方」です。真理の考え方は「4つの聖なる真理」の「4. 道の真理(八正道)」です。
これは、欲のない考え、怒りや憎しみなど悪意のない考え、害のない考えを導きます。これによって心が平静で純粋で気づきのある状態となり、智慧が出現して、解脱となります。
SN-5-13-1114
"Kiṃsu saṃyojano loko, 何が・いったい 束縛するもの この世で kiṃsu tassa vicāraṇaṃ; 何が・いったい 人々にとって 考えを巡らす Kissassa vippahānena, 何を 放棄することで nibbānaṃ iti vuccati". 涅槃がある と 言うのか
ウダヤ:
この世で束縛とは
いったい何なのでしょうか?
人があれこれ考えるのは
いったい何なのでしょうか?
何を放棄することで
涅槃と言えるのでしょうか?
解説
saṃyojano:縛り目、絆、結束、束縛。vicāraṇa:調査、考察、計画。
SN-5-13-1115
"Nandisaṃyojano loko, 喜び・束縛は この世は vitakkassa vicāraṇaṃ; 区別により 考えを巡らす Taṇhāya vippahānena, 渇望 放棄することで nibbānaṃ iti vuccati". 涅槃がある と 言う
ブッダ:
たわいのない喜びが
この世で束縛となる。
対象を区別するから
人々はあれこれ考える。
渇望を放棄することで
涅槃となる。
解説
ここで語られていることは「4つの聖なる真理」の「2.苦しみの原因」についてです。
「Nandī(ナディ)喜び」は、「嬉しい、楽しい、大好き」といったたわいのない喜びの気持ちです。好きとか、楽しいはポジティブなものだと思いがちですが、人は常に人生に喜びを期待し、喜びに振り回されています。
美しいものや面白いものを見たい、好きな音楽を聞きたい、いい香りを嗅ぎたい、美味しいものを味わいたい、心地よい感触に触れたい、楽しかった思い出やワクワクする夢をみたいと、常に世の中に喜びの刺激を期待します。喜びが感じられれば、次の喜びが欲しくなり、喜びが感じられなければ、つまらなくなるのです。これが永遠に続くのが人生であり、この世の束縛です。
しかしこれらの自分を喜ばせるものはすべて、自分が勝手に「好き」と感じた対象です。美しいも面白いも、論理的な根拠のない単なる主観です。
6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)にその対象物(色声香味触情)が触れると、瞬間的に感覚(好き・嫌い・無関心)が生じて、それからごちゃごちゃ考え始めて膨大な妄想の世界が現れます。この時の精神作用が、vitakka(ヴィタッカ)とvicāra(ヴィチャーラ)です。
まずセンサーの役目である vitakka が瞬間的に考えて情報収集して対象を区別し、プロセッサの役目である vicāra が対象について考えを巡らせます。これによって情報が意味に変わり、行動するための意図や動機となります。
vitakka・vicāraは常にペアで働く精神作用で、vitakka が生じなければ vicāra は起こりません。
SN-5-13-1116
"Kathaṃ satassa carato, いかに 気づきのある者 行い viññāṇaṃ uparujjhati; 意識 止める Bhagavantaṃ puṭṭhumāgamma, ブッダに 質問するために・来た taṃ suṇoma vaco tava". それを 聞きたい 言葉を あなたの
ウダヤ:
どのように気づくことで
意識を止めるのでしょうか?
ブッダに質問するために来たのです
あなたの言葉を聞きたいのです。
解説
「viññāṇa(ヴィンニャーナ)意識」は、心そのものです。
自分に起きる問題はどれも、自分が見たことや聞いたこと、考えたこと、感じたことから生じます。6つの感覚器官(目耳鼻舌身心)には、6種の情報が絶え間なく流れてきますが、このうち5つの感覚器官(目耳鼻舌身)は、今ここにあるものを認識するだけなので、それほど問題は起きません。
悩み苦しみを生み出すのは、6つ目の「心(意識)」です。心は今ここに「あるもの」にも「ないもの」にも触れるからです。
心は「ないもの」について考えていることがほとんどです。私たちが悩んだり苦しんだりする対象は、「あるもの」に各々が勝手に好きや嫌いの主観を交えて、心が自分バージョンに作り出した「ないもの」です。それを「ある」と勘違いして、欲や怒りで感情を膨らませて苦しんでいます。
この心(意識)をどうやって止めるのでしょう?
SN-5-13-1117
"Ajjhattañca bahiddhā ca, 内に・も 外に も vedanaṃ nābhinandato; 感覚を ない・喜ぶ Evaṃ satassa carato, このように 気づきのある者 行う viññāṇaṃ uparujjhatī"ti. 意識は 停止する と
ブッダ:
心の内でも外でも
喜びの感覚をなくすこと。
このように気づいていれば
意識は停止する。
とブッダは言いました。
解説
ブッダの答えは「4つの聖なる真理」の「3.苦しみの停止」についてです。
人は常に喜びの感覚刺激を追い求め、結局それに振り回されて苦しんでいます。
自分の意識(心)が勝手に対象に好感を抱いて「自分のものにしてもっと喜びたい」という欲が生じたり、意識(心)が逆に嫌悪感を抱いて「自分の喜びの邪魔」という怒りが生じます。どちらも思い通りにはならないので、苦しみとなり意識(心)が束縛されます。
人の意識(心)は、外から得た情報をあれこれ考えて、自分だけに通用する意味に変えてしまいます。この考える過程を知的な作用だと思っていますが、実際には大したことは考えていません。その時の気分次第で、欲か怒りの感情を膨らませているだけです。
そうして意味づけられた「ないもの」を、本人は現実(あるもの)だと思い込んでいますが、他から見れば唯一無二の捏造です。
その妄想を根拠に、自分の考えは正しい、相手は間違っていると思うから、対立が生じるのです。これが「avijjā(アヴィッジャー)無智」です。
この妄想を破るためには、自分に起きるさまざまな出来事の中で、常に気づいて、自分に生じた感覚(好き・嫌い)を受け入れることも、拒否もしないようにすると、そこで認識が停止します。苦の停止です。あれこれ考えて、情報を意味にする前、情報を情報のままで意識を止めた状態です。
常に初めて接した時のように、先入観なしで受け止める。感じたものは感じただけで止める訓練をする。愛着も拒絶反応もつくらないようにする。これを何度も何度も繰り返し、日々の出来事の中で実践して鍛える。これが修行です。
スッタニパータの50でも、同じことが語られています。
Udayamāṇavapucchā terasamā niṭṭhitā. ウダヤ・青年・質問 13番目 終わり
ウダヤ青年の質問 終わり
まとめ
このスッタ集は、これまで翻訳した中で最も難儀しました。
分別(ふんべつ)とは「世事に関して、常識的な慎重な考慮・判断をすること」です。一見良いことのように思えますが、分別は知識による区別であり、ごく狭い世界での常識に基づく善悪や損得によって判断されます。
一方、無分別は「思慮がなく軽率なこと」というのが世間の常識ですが、ブッダの教えでは無分別は智慧です。ものごとには本来、善も悪も、損も得もありません。正しいも間違っているもないのです。善行とか正しいとか区別するから、それに基づいて思考がはじまります。
区別しないで、ありのままに受け止めるのです。
純粋さも同じです。「純粋な心」は、心が浄化された状態ですが、悪が全部なくなって、善で満ちた状態ではありません。悪も善もない状態で、愛と慈しみに満ちているそうです。
悟りに至る道でも、便宜上「善行、正しい道」などと用いていますが、善いも正しいも所詮は主観です。善人とは善い人のことではなく「心が成長している人」のことです。心が成長するには、他の生き物の幸せを願い、他の生き物の役に立つ行動をすることです。他者の幸せを願って行動した分だけ、道が開き、自分の心が成長します。 自他共に幸せになることが、人間として一番大切なことだからです。