14. Dhammikasuttaṃ ダンミカ ①
第2章「小なるもの」の最後のスッタ集は「Dhammika ダンミカ」です。ダンミカとは、ここでは人名ですが、「ダンマのプロ・ダンマに精通した人・法師」という意味です。このスッタ集のダンミカさんは、非常に熱心で博学な在家修行者で、在家のまま最終的にはアラハンになった人です。
このスッタ集は短い前文があり、全部で27スッタあります。378〜386の9スッタは質問者ダンミカの詩句が続き、ブッダの答えは387以降に始まるので、ブッダの言葉以外のスッタは簡略化させていただきます。
前文
Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Atha kho dhammiko upāsako pañcahi upāsakasatehi saddhiṃ yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdi. Ekamantaṃ nisinno kho dhammiko upāsako bhagavantaṃ gāthāhi ajjhabhāsi –
私はこのように聞きました。
ある時、ブッダはサーヴァッティになるジェータ林苑の祇園精舎に滞在していました。そこへ在家修行者(ウパーサカ)のダンミカが、500人の在家者を連れてブッダのもとを訪れました。ブッダに敬礼して、かたわらに座りました。それからダンミカは、ブッダに詩句で語りかけました。
解説
ダンミカはこの時すでに、悟りの第3段階であるアナーガーミーだったそうです。
SN-2-14-378〜386
在家修行者であるダンミカの質問
sāvaka(弟子)はどのように
行動すれば良いのですか?
出家者の場合は?
在家者はどうでしょう?
神々と人間の目的を深く知り
光り輝くブッダに質問します。
象王や神々の王たちも
あなたの話を聞いて満足していました。
異教徒たちも
あなたの智慧には追いつけません。
論争好きなバラモンや長老も
あなたがどう答えるかを聞ききたいのです。
素晴らしいダンマを
私たちに説いてください。
解説
ダンミカの質問は、ヴァンギーサのスッタと同じような調子でした。まとめると上記のような感じです。この後のブッダ の答えが始まりますが、まずは387〜394で出家者に関する心得を語ってくれます。
SN-2-14-387
‘‘Suṇātha me bhikkhavo sāvayāmi vo, 聞きなさい 私を 比丘たちよ 聞かせよう あなたに dhammaṃ dhutaṃ tañca carātha sabbe; ダンマを 払い除く それを・そして 守りなさい 全て Iriyāpathaṃ pabbajitānulomikaṃ, 所作を 出家者に・適した sevetha naṃ atthadaso mutīmā. 従うように それを 利益・見出す 覚者は
ブッダ:
比丘たちよ
私の話を聞きなさい。
穢れを払うダンマを聞かせよう
みなさん全員、それを守りなさい。
徳を積む者、覚者は
出家者にふさわしい
立ち居振る舞いをするように。
解説
まずは出家した比丘たちの行動についてです。Iriyāpatha は「身体の動作」のことです。歩く、立つ、座る、横になる。この4つの動作において、修行者は常に気づいていなくてはなりません。マハーサティパッターナの身体の観察の2つ目です。
SN-2-14-388
‘‘No ve vikāle vicareyya bhikkhu, ない 実に 非時に 歩き回るように 比丘は gāme ca piṇḍāya careyya kāle; 村に そして 托鉢 行くように 正時に Akālacāriñhi sajanti saṅgā, 非時に・歩く者に 囚われる 執着に tasmā vikāle na caranti buddhā. だから 非時に ない 歩く 覚者は
比丘は間違った時間に
歩き回らないように。
正しい時間に
村に托鉢に行くように。
間違った時間に出歩く者は
しがらみに捕らわれるから
覚者は間違った時間には
出歩かないように。
解説
出家者が托鉢に行く時間は朝です。出家者は正午以降は一切食事をとらないので、午後に出歩く必要はありません。午後に村を歩いているということは、要らぬことをしているということです。そこには当然、心を引きつけるしがらみがあり、精神の妨げや障害になるだけでなく、執着の元となります。
SN-2-14-389
‘‘Rūpā ca saddā ca rasā ca gandhā, 色形 と 音 と 味 と 香 phassā ca ye sammadayanti satte; 触感 と それらは 狂わせる 生物を Etesu dhammesu vineyya chandaṃ, これらの 事象によって 除くように 意欲を kālena so pavise pātarāsaṃ. 正時に 彼は 入るように 朝食に
色形や音、味、匂い
触れられるものは
人々を狂わせる。
これらのものに対する
欲を抑えるように。
しかるべき時に
朝食を取りに行くように。
解説
世俗の暮らしには、五感を刺激する誘惑が溢れています。出家者は托鉢に行く際にも、視線を落として、なるべく余計なものは見ないようにします。見なければ(接触しなければ)、欲しいという気持ちも、嫌だという気持ちも起こらないのです。見た(接触した)から、欲や嫌悪が生じるのです。
SN-2-14-390
‘‘Piṇḍañca bhikkhu samayena laddhā, 食べ物を・そして 比丘は 適時に 得て eko paṭikkamma raho nisīde; 一人 戻った後 孤独に 坐るように Ajjhattacintī na mano bahiddhā, 内側に・心を向け ない 意識は 外側に nicchāraye saṅgahitattabhāvo. ない・外に行くように 自己を収集して
そして比丘は
しかるべき時間に
食べ物を得て戻った後は
一人で黙々と坐るように。
心を自分の内側に向けて
意識が外側の物事に
向かないように。
自己の内面を観察して
外には行かないように。
解説
出家者は午前中に食事を終えたら、ひたすら瞑想です。静かな場所で一人、目を閉じて、外部からの情報を最小限にして、意識が外に向かないようにして、自分の心の内側を観察する洞察瞑想です。
「外には行かないように」は、意識が外側に向かないように、という意味と、立ち上がって外に出て行かないように、という2つの意味が込められていると思います。
SN-2-14-391
‘‘Sacepi so sallape sāvakena, もし・また 彼が 対談 弟子と aññena vā kenaci bhikkhunā vā; 他の誰かと あるいは 何かによって 比丘 あるいは Dhammaṃ paṇītaṃ tamudāhareyya, ダンマを 優れた 彼に・詠むように na pesuṇaṃ nopi parūpavādaṃ. ない 中傷 ない・また 他を非難する
また、もし彼が弟子や
他の誰かとあるいは比丘と
何かについて語り合うなら
優れたダンマについて語るように。
他を非難したり中傷しないこと。
解説
何かについて語り合っているつもりが、いつの間にか誰かの批判になっていることは、私たちにもありがちなことです。ダンマパダの50番にもあるように「他人ではなく、自分がしたこと、しなかったことだけを気にすればいい」のですが、気がつけば、その逆ですね。
SN-2-14-392
‘‘Vādañhi eke paṭiseniyanti, 論に・実に ある人は 反対する na te pasaṃsāma parittapaññe; ない 彼ら 賞賛する 小さき・賢人を Tato tato ne pasajanti saṅgā, それより それより 彼らは 放出する 執着が cittañhi te tattha gamenti dūre. 心の・ために 彼らは そこで 送る 遠くに
ある者は反論を口にするが
こざかしい者たちを賞賛しない。
あちこちでこだわって
彼らの心は遠くに行ってしまう。
解説
反論とは、聞かされた論理に反対するということで、「あなたは違う、私が正しい」という反応(サンカーラ)です。実際にはどんな論にも、正しいも間違っているもなく、自分の考えとどれだけ違うか、似ているかというだけです。そのことに気づくどころか、あちこちで持論を展開しては、敵対したり固執していたりでは、心は遥か彼方へと行ってしまうのです。行くべき先は彼岸です。
SN-2-14-393
‘‘Piṇḍaṃ vihāraṃ sayanāsanañca, 食べ物 僧院 床坐具・と āpañca saṅghāṭirajūpavāhanaṃ; 水・と 僧衣の・汚れを・洗い落とす Sutvāna dhammaṃ sugatena desitaṃ, 聞いて ダンマを 善く・行く 説かれた saṅkhāya seve varapaññasāvako. 考慮して 使うように 優れた理解力の・弟子は
優れた理解力を持つ弟子は
ブッダの説いたダンマを聞いて
食べ物、僧院、寝床と座具
僧衣の汚れを取るための水を
よく考えて使うように。
解説
Sugata(善逝)ブッダ のことです。出家者の暮らしは、快適さを求めるものではなく、生きるために最低限の衣食住で、足を知る生活です。このスッタでは、他のスッタにはない「水の使い方」についてもふれています。
SN-2-14-394
394. ‘‘Tasmā hi piṇḍe sayanāsane ca, それ故に 実に 食べ物 床坐具・と āpe ca saṅghāṭirajūpavāhane; 水 と 僧衣の・汚れを・洗い落とす Etesu dhammesu anūpalitto, これらの 事象について ない・汚される bhikkhu yathā pokkhare vāribindu. 比丘は ように 蓮葉 水滴
だから食べ物、寝具と坐具
衣服の汚れを落とす水。
比丘は水滴を弾く
蓮の葉のように
これらに心が
穢されることはない。
解説
出家者は最低限のものしか持たないので、「私のもの」という執着の元となるものを所有していません。執着が発生しなければ、それによって心が汚されるリスクが減るのです。ものを持てば持つほど、私のものが増えて執着が発生し、大切な私のものがなくならないか心配になり、保険も入りたくなるのです。
蓮の葉には「ロータス効果」という作用があります。蓮の葉は超撥水性なので、葉の表面についた水はコロコロと丸まって水滴となり、泥や小さい虫や、異物を絡め取りながら転がり落ちます。この天然の自浄作用が、ロータス効果です。
蓮は泥から出て、葉も花も泥に染まらないだけでなく、自ら浄化する力まであるのです。このロータス効果は、近年、植物学者によって発見されたものですが、ブッダたちは当時から、ちゃんと理解していたのですね。
次は在家者のあり方について、ブッダが説明してくれます。