第1章 蛇:3. 犀のように 43〜49

3.Khaggavisāṇasuttaṃ 犀のように ②

SN1-3-43

Dussaṅgahā pabbajitāpi eke, 
難しい・救済 出家者 ある 
atho gahaṭṭhā gharamāvasantā;
さらに 在家者 家・住む
Appossukko paraputtesu hutvā,
無関心 他の・子達において 存在
eko care khaggavisāṇakappo.

出家者でも救い難い人がいる
まして家庭を持つ在家者は当然
他人のことには関心を持たずに
犀のように独りで行動しよう

解説

出家者であっても困った人はいます。まして在家者であれば、そのような人はさらに多くなります。愚かな人との付き合いはストレスがたまります。愚かな人は、自分が愚かであることに気づいていないからです。そのような人と関わりを持たずに一人になって、精神的な成長と覚醒のみに、集中する方がはるかに良いのです。

SN1-3-44

Oropayitvā gihibyañjanāni, 
取下げ 家の印
sañchinnapatto yathā koviḷāro;
葉を落とした ように 黒檀の
Chetvāna vīro gihibandhanāni,
断絶 強者は 家の束縛
eko care khaggavisāṇakappo.

在家の印である髪と髭を剃り落とし
葉を落とした黒檀の木のように
家庭のしがらみを断ち切った強者は
犀のように独りで行動しよう

解説

gihibyañjanāni(家の印)とは、髪の毛と髭のことです。gihibandhanāni(家の束縛)は在家における家庭のしがらみのことで、36〜43話までに語られたことです。

妻子や仲間、愛情や同情、愛着・執着、別離の苦しみ、食べものや居場所の不安と怖れ、人間関係の問題。これらがすべて在家の束縛です。

これらを全て断ち切り、出家することができるのは強い人なのです。

SN1-3-45

Sace labhetha nipakaṃ sahāyaṃ, 
もし 得たなら 賢明な 友を
saddhiṃ caraṃ sādhuvihāridhīraṃ;
一緒に 修行する 善良・生きる・賢者
Abhibhuyya sabbāni parissayāni,
克服して 一切 困難を 
careyya tenattamano satīmā.
行こう 彼と一緒に 気づきのある人

もし賢明な友を得たなら
正しく生きる賢者と共に修行し
あらゆる困難を克服して
共に気づきをもって行動しよう

解説

このスッタには、「犀のように独りで生きよう」のフレーズがありません。45話はダンマパダの328と同じです。

これまでは、妻子や仲間から離れて、家庭を捨てて、犀のように独りで生きることが推奨されてきましたが、ここでは「もし賢明な仲間を得たなら、共に気づきをもって行動しよう」に変わっています。賢明な友とは、4つの聖なる真理を教え、8つの正しい道を実践できる人です。「気づきをもって行動」とは、常に気づきをもって修行するということです。洞察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)は、坐っているときだけでなく、歩いている時も食べている時も、寝ている時さえも、24時間常に自分の身体・言葉・思考の行為に気づきをもって意識を向けて行動する修行です。

SN1-3-46

No ce labhetha nipakaṃ sahāyaṃ, 
ない もし 得たなら 賢明な 友を
saddhiṃ caraṃ sādhuvihāridhīraṃ;
一緒に 修行する 善良・生きる・賢者
Rājāva raṭṭhaṃ vijitaṃ pahāya,
王の 領地を 征服する 捨てる
eko care mātaṅgaraññeva nāgo.
独りで 行く 象・森の中 象は

もし共に修行し
正しく生きる
賢明な友を得られなければ
王国を捨てる王のように
森の中の象のように
独りで行動しよう

解説

ここでは「犀のように」の部分が「森の中の象のように」となっています。46話はダンマパダの329と同じです。

SN1-3-47

Addhā pasaṃsāma sahāyasampadaṃ, 
確かに 賞賛 友・獲得
seṭṭhā samā sevitabbā sahāyā;
優れた 同じ 親近すべき 友
Ete aladdhā anavajjabhojī,
これを 得ずして 無罪の・食べる人
eko care khaggavisāṇakappo.

自分よりも優れた
あるいは同等の
友を得ることは
実に賞賛に値する
そんな友と親しくしなさい。
そのような友を得られないなら
日々の生活を正しく暮らし
犀のように独り行動しよう

解説

ここでいう「友」は、世俗の友達ではなく、道を歩む同志のことです。世俗にまみれた妻子や友達、仲間からは離れ、ブッダの教えを学び道を行く同志の中に、自分と同等あるいは、自分よりも優れた者を見つけたなら、それは賞賛に値することなので、そんな同志と親しくなって、共に学び、共に道を行きなさい、ということです。

余談ですが、ブッダの教えを深めていくと、同じ道を行く優れた、あるいは同等の同志に自然に会えるそうです。この友は、前世で一緒に修行したことのある友であり、再会であることが多いそうです。ちょっと現実離れしたオカルトチックな話ですが、現実社会で実感することが多々あるので、一説として載せておきます。

SN1-3-48

Disvā suvaṇṇassa pabhassarāni, 
理解する 黄金の 輝く
kammāraputtena suniṭṭhitāni;
金細工・子 完成した
Saṅghaṭṭamānāni duve bhujasmiṃ,
挑発する 2つ 腕において
eko care khaggavisāṇakappo.

金細工職人が作った
輝く黄金の装飾品も
腕に2つあればぶつかり合い
ガチャガチャ音を立てるのを見て
犀のように独りで行動しよう

解説

どんなに美しく素晴らしい黄金の装飾品でも、腕に2つあれば不快な音を立てるものです。それを見て、2つのものが同じところにあれば、必ずぶつかり合うことを理解しなさい、ということです。家族も仲間も一緒にいれば、必ずぶつかり合うものです。

SN1-3-49

Evaṃ dutiyena sahā mamassa, 
このように 伴侶 共に 私のもの
vācābhilāpo abhisajjanā vā;
言葉・話す 不機嫌 あるいは
Etaṃ bhayaṃ āyatiṃ pekkhamāno,
この 怖れ 未来 観察する
eko care khaggavisāṇakappo.

このように他人と一緒にいれば
会話でぶつかり合うこともある
将来そうなる危険を察知して
犀のように独りで行動しよう

解説

人がいれば、そこに会話が生じます。その会話は時に争いを生み、不機嫌な状況を生みます。どんなに仲のよい相手でも、意見のくい違いはあるものです。

人は互いに依存しあって生きているので、1人でいるのは不安なのです。他の生命との関係を確認するため、コミュニケーションを取ろうとします。この場合、内容はどうでもよくて、相手がいることが大事なのです。しかし自我が発達している人であればあるほど、こだわりのある見解や意見を持っています。そのため内容のない会話は意見の対立となり、争いごとの原因となるのです。

親が子供と会話したがり、子供はウザいと避けるパターンがまさにそれです。親は子供との関係を確認して安心したいという思いから子供に話しかけますが、子供は必要のない会話だと察し、勝手に心配して安否確認を求められている=信頼されていないと心が感じて嫌がるのです。ペットの犬に話しかけて「ワンちゃんだけだ、私のことを理解してくれるのは」というもの同じです。自我の意識が低い生物を対象に、自分の心を紛らわしているのです。

必要のない会話は「無駄話」に過ぎません。「楽しむためのおしゃべり」は無駄話なのです。退屈だから、不安だから、寂しいから、おしゃべりで心を紛らわしているのです。これらは時間の無駄であり、時間の無駄使いは生命の無駄使いです。

楽しいことや辛いことがあれば、誰かに話したくなります。この時、楽しかった出来事を誰かに話して共有したい、共感したい、という思いがあるかもしれません。しかし、それは共有でも共感でもありません。共有、共感は、他者の喜びや苦しみを自分が引き受けることです。立場が逆です。

あるのはもっと喜びに浸りたい、というエゴだけです。苦しかった出来事も同じです。誰かに話して、自分に非がなかったことを確認したい、慰めて元気にしてもらいたい、という他者に依存する図々しさと欲がそこにはあるのです。

心が穏やかになれば、楽しいことがあっても、苦しいことがあっても、何かを話したいという欲望がなくなるのです。楽しかった出来事も苦しかった出来事も、話して聞かせる時点で変化しているし、そもそも自分の心の中の投影でしかない出来事を、他人に話し聞かせる価値などない、と理解しているからです。